顔がむくんでいくのがわかる。
 死はやさしく甘美に抱くというが……このこと……か。
 意識が散り始める。
 バラバラに。
 蒼崎橙子という存在が、思念が、思考が、散ろうとしている。
 存在すべてが無になろうとしている。
 ただ――息が出来ないというだけで。
 ただ――脳に血が通わないということだけで。
 たったそれだけで――すべてが終わる。
 なんて簡単。
 創り出すのはとても難しいのに、壊れるのは、こんなにも――簡単。
 突然。
 息ができる。
 大きく口はひらき、喘ぐ。肺いっぱいに冷たい酸素が入ってくる。
 痛い。
 苦しい。
 でも――気持ちよい。
 ぜいぜいと荒い息をして、呼吸を整える。
 その唇におしつけられた。
 アルバの唇。
 それは荒々しく、まるで破壊するかのようにねぶり、舌をいれてくる。
 息が出来ない。
 でもその舌はわたしの口の中を蹂躙し、甘露な快感を生み出していた。
 わたしも応えて舌を絡める。
 激しい口づけ。接吻。
 息も出来ない。
 ただ唇の端から甘い吐息だけが漏れる。
 アルバの息が、その荒々しさが、無性に愛らしかった。
 技巧もなにもない。だたがむしゃらな口づけ。
 そしてゆっくりと離れる。
 アルバの目はすわっていた。
 なにかこわいものをみているような、瞳。
 まばたきせずにわたしを見つめていた。
 わたし笑う。妖艶に。誘うように。男を淫らにさせる笑み。

「……抱くのか? かまわないぞ」

 わたしは胸を押しつける。アルバの肌が服越しでも熱い。震えそうなほど熱い。興奮して先は尖っていた。

「……ふん」

 アルバは離れる。
 少しだけ寂しかった。

「アオザキ、何を求める」
「……」
「答えろ」

 吐息が漏れる。そうだ。そうなんだ。

「――――真を」

 いつか荒耶にいった言葉。蒼崎橙子の命題。

「何処に求める」
「――――わたしの技に」

 そう。それこそ、わたしが英国まで留学してきた理由。

「何処を目指す」
「――――わたしを」

 ああ――――――まったく。

「少しは不抜けたものが戻ってきたようだな」

 アルバはそういって離れる。その暖かい躰が離れるのは、もの悲しかった。
 わたしは笑う。
 嗤うではなく、笑う。久方ぶりの笑い。

「いっておくがアオザキ。私は君を憎んでいる。憎悪しているといってもいい。殺したいほどだ。
しかし不抜けたアオザキには興味はない。本当のアオザキを殺す。それこそわたしの楽しみなのだ」

 わたしは笑いながら、はだけた胸を隠し、乱れた服装を元に戻す。が強姦されたばかりの女性といった姿だ。やれやれ。
 すると何かがかぶさってくる。
 赤いタオルとコート。タオルまで赤いのは笑えた。
 憮然とした表情を男は浮かべていた。
 タオルで男の精をぬぐい、ブカブカのコートを身にまとう。
 暖かかった。その温もりが、ただ心地よかった。

「……せっかくのチャンスだったのにな、アルバ」
「――――なに?」

 怪訝そうな表情を浮かべる。

「アルバ。お前がわたしを殺せる唯一のチャンスだったといっているのだ」

 ビックリしたような顔。そしてその顔にはまた奇妙な表情が浮かぶ。
 期待、畏怖、嫌悪、後悔――そして喜悦。
 くくく、まったく。
 わたしは埃をはらって、立ち上がる。
 赤いコートのおかげで、少々目立つが、町中を歩いても何の問題もない。

「もうこんなチャンスは与えないぞ、アルバ」
「あぁ」

 複雑な声。痺れているような、うわずった声。

「あぁ、あぁ――そういう傲慢な君をひぃひぃいわせてやる」
「いやらしいな」
「なにを言っている! 苦しみ悶えながら殺してやるよ」
「あぁ」

 にやりと笑う。

「期待せずに待っているよ」
「覚えておけよ」

 明るいアルバの声。
 ふん、まったく。

「覚えているわけないだろう。まったく」

 わたしは意気揚々と戻る。
 そうわたしの工房に。
 封印指定されたからなんだというのだ。
 「 」に辿り着いたこともない輩が何を言うというのだ。
 学院を抜ければいい。
 実験や資料は豊富でも、研究できないのであれば何の意味もない。
 そうだ。
 足取りが軽い。
 カツカツカツと小気味よい足音。
 気持ちよい。
 心が軽くなる。
 わたしは魔術師で、魔法を目指す者だ。
 だから――最後までそれに拘っていたのだ。
 学院をうろつきまわったのもそのため。
 わたしの命題。それは「 」に辿り着くこと。
 たとえ学院すべてが敵に回るというのならば、それらすべてをうち砕けばいい。
 それが――いやそれこそが、わたし、だ。

◇     ◇     ◇

 わたしは工房に戻ると荒耶を呼び出した。
 現れたアルバはわたしを一目見るなり、笑った。
 これにはこちらがびっくりした。
 全人類の業と悲哀を背負ったかのような、こいつが笑うだなんて――。

「憑き物が落ちたようだな」
「ふん、今までわたしがふがいなかっただけさ」

 そういって荒耶の耳に口を近づける。

「学院を抜ける。手伝え」
「ようやく決心したか」
「まったく。荒耶、お前はわたしの男だ。なら――」
「なら?」
「自分の女のいうことぐらい、素直に聞け」

 また薄く笑う。
 荒耶がこういう笑みを浮かべることができるなんて初めて知った。
 昔、荒耶の起源を目覚める前、まだ魔術師でなかった時に浮かべていただろうそれは――無性に人間っぽい笑みだった。

 ――――――あぁ。

 その時、腑に落ちた。何もかもわかった。
 わたしも、アルバもそして荒耶もそうなんだ。いや――すべての魔術師は……。
 無性に可笑しかった。
 笑うしかない。
 なんていうことだ。
 魔術師という人種がわかった。
 魔法使いになれない。
 そう。
 なることなどできない。
 もの悲しさで胸が締め付けられる。
 わたしの男。ロンドンでのわたしの男。二番目の男。
 愛しいのかどうかと問われればわからないとしか答えようがない。
 ふたりの間には愛情なんていうものはなかった。
 それがよくわかった。
 あったのは――肉欲と弱さだけだった。
 なんて――脆弱。
 なんて――脆くて弱い。
 こんなにも――弱い存在。
 だからこそ。
 肌を重ねたのだ。
 なんの情ももたないわたしの男を、ただ憐憫の目で見つめ、そっと言う。
 わたしが学院から抜けるために。

「まず荒耶。お前の得意な結界の張り方をわたしに伝授してくれ……」

◇     ◇     ◇








 ジョリ。








 ひらひらと落ちる。








 ジョキ。








 音をたてて落ちる。








 バスルーム。大きな鏡の前。そこに映し出されるわたし。
 少しずつ解放される。
 この重みが少しずつなくなると、それだけ心の澱が消えていく。
 妹と同じ顔。
 涙している。
 なぜか目から涙がこぼれて仕方がなかった。
 でも笑っていた。いや――泣いているのか?
 わからなかった。
 しかし今浮かべている表情は――――妹のではない。
 わたし。
 蒼崎橙子という存在。
 この肉体の中には何が詰まっているのだろうか?
 見えるのは女の肉体。
 華奢な鎖骨。
 ふくよかな乳房。
 くびれた腰。
 まるみのおびた腰。
 ほっそりした腕。
 美しく手入れされ、装飾された爪。
 肉感のある太股。
 すらりと延びた脚から爪先。
 幾人の男に抱かれた体。
 体が汚れることなど――ない。
 そう。
 心が、その罪を、その咎を感じるか否か?
 ただ、それだけ。
 背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道によって罪を背負うべきだという事。
 それは罪ではない。
 それは咎ではない。
 わたしの道はただ唯一。
 魔術師であること。
 蒼崎橙子であるということ。
 ただ、これだけ。
 たったこれっぽっちの矜持。
 それこそ、わたし。
 ゆえに――魔術師として罪を背負おう。
 わたしは住み慣れた、でも空っぽになって妙に冷え冷えとするアパートメントを一瞥する。
 そこにはドライフラワーになった赤い薔薇。アルバが持ってきたもの。
 二次、あるいは三次感染は困難だが、やっておく。この薔薇を通じてアルバに術を施す。あとはアルバがこの薔薇にどれだけ集中したか、そしてわたしにどれだけ意識を割いているか、だ。
 ゆっくりとアルバの精神に近づく。
 意外に早く辿り着き、ビックリする。
 それだけアルバはこの薔薇に思いを込めていたか、それともそれだけわたしを憎悪しているか、だ。愛も憎しみも、同じようなものだ。その人の心をたやすく縛り上げる。

 だからいったのに。

 アルバへ最後の忠告を心の中で呟く。

 ミスチルやオカルトの語源を考えろ。アルバ、お前は痕跡を残しすぎだ。
 だからこのように――利用される。

 ルーンの回路がひらき、アルバの意識を混濁させる。
 追っ手は少なければ少ないほどいい。アルバが追いかけてくるとは思わないが、少しでも不安材料は片づけておくべきだ。
 アルバの意識が混濁し、倒れるのを“視る”と、接触を解除する。
 ドライフラワーをくしゃくしゃにして、意味も見立てもとれないようにして、まき散らす。
 この部屋の四方にはルーンストーン。簡単な結界を張っておく。気休めみたいなものだが、今回はそれだけで充分役に立つだろう。
 そしてわたしは出ていった。





 夜のとばりの中、わたしは歩いている。
 英国では午後5時には商店が閉店する。メインストリートでもそう。あとは家かパブ。古き良き慣習というところ。
 人の姿がなくなった町中を歩いている。
 タクシーを使えば早いのはわかっているが、巻き込むのは気が引けた。
 それに――。
 たとえ商店が閉まっているとしてもメイン・ストリートにこれだけ人がいないのはおかしい。
 風さえない。
 霧さえない。
 ただむっとする湿気だけ。
 なのに吐く息は白い。
 怪奇現象というヤツだ。
 なんていうことはない。結界が張られている。
 目標の人間だけではなく、他の生物、はては自然環境までも結界内に封じ込めるのならば、魔法とほとんど変わりない。
 日本で言うところの隠れ里。この地ではフェアリーランド。妖精の輪をくぐってものは、そのまま永久に歳もとらず妖精の国でまどろむばかり。
 素晴らしい技の冴えだ。
 しかしわたしは歩みを止めない。
 たとえ学院すべてが敵に回るというのならば、それらすべてをうち砕けばいい。
 邪魔するものはすべて――たとえ荒耶でも。たとえアルバでも。
 そう。それこそ、わたし、だ。

「どこへ行くんですか? ットーコ」

 すぐ近くで声がする。
 きちんと日本語の発音ができない、かといってアルバのような奇妙なイントネーションではない。

「出かけるんですよ、マーガット女史」

 声がしたわたしの行く手を見据える。
 そこだけが霧がかかったよう。
 うすらぼんやりとして、曖昧で、胡乱な空間。
 どうやらマーガット女史の腕前に関して認識を改めなければならないらしい。
 ゆっくりと姿が見える。
 赤毛の巻き毛が印象的な、バケツサイズのアイスクリームがよく似合うチャーミングな女性。
 足下にはころころ太ったヨークシャテリアのペギーが戯れている。

「まぁまぁまぁ、こんな夜更けに」

 近寄ってくる。
 笑みを浮かべたまま。
 わたしも歩を進める。
 何の感慨も、何の緊張もない。邪魔者は排除するだけ。ただ――それだけ。

「ットーコ、貴女は封印指定を受けた立派な術者です」
「それが?」

 互いの歩みは止まらない。

「研究はそこで終了です。あなたは学院の規則に反しようとしています」
「だから?」

 カツカツとパンプスの音が響く。
 わたしの長い黒髪がたなびく。
 何も変わっていないというのに。
 空気が熱い。
 チリチリと――。

「これは命令です。ミス・ットーコ、アゥザキ」
「くだらん」

 一蹴する。
 チリチリと空気が焦げる。
 互いの魔術回路が動いているのがわかる。
 たなびいていた魔力が渦巻き、ごぅごぅと音をたてて集まってくる。
 魔力に感応して霧が煌めく。

「最後通牒です。ットーコ――いえ『傷んだ赤』」

 よくぞその名で呼んだ!
 わたしの唇がつり上がっていく。

「ひとつ言おう。その名で呼んだからには――」

 蒼崎の血が、ルーンの魔術回路が、わたしの魔眼を開眼させる。
 そこら中にルーンという形で魔力の、生命の、力の流れが見える。
 妙にぼやけた女史の力。複数の魔力が重なっていた。なにかすでに術を使っているようだが――関係ない。

「死ねっ!」

 素早くケンのルーンを描く。意味は火。
 とたん、女史が火に包まれる。はずだったが、女史の姿がかき消える。そこにはペギーだけ。
 周囲を警戒しながら、ルーンと呼ばれる回路を働かせる。
 防御のエオのルーンと、ウィンのルーン。意味は幸せ、喜び。そして洞察力。
 見えない女史を捜し出そうとする。
 魔術は大まかに分けて2つの形式がある。フレイザー氏がまとめた金枝編でもこう述べられている。類似呪術と感染呪術だ。
 類似魔術はその類似性に魔術的なつながりを見いだす。たとえばその本人によく似た人形。絵画に人物像はその人と同じ魂を宿すとされていて、それを通じて術をかけることができる。
 感染魔術はその人本人の一部、たとえば髪の毛や爪、血などにその人へと繋がる道があるとされるもの。
 日本のわら人形による丑刻参りはこの2つを用いている。わら人形という、人への類似。そしてそのわら人形の中にはその人本人の髪または爪などの感染。これによって魔術の焦点とするのだ。
 わたしは女史に対して類似も感染の源ももっていない。ゆえに直視する必要があった。
 ペギーが鳴く。
 カン高い耳障りな鳴き声。
 とたん。
 いつぞやの剣闘士が現れた。
 わたしは思わず賞賛しそうになった。
 アストラル界ならまだしも現実において、このようなものを召喚するなど、一流の魔術師ということだ。
 相手にとって不足はない。
 じっと観察する。
 剣闘士は筋肉もしっかりとしてい矛盾するところはない。
 しかし実体があるのかどうか不明だ。
 もし幻の類であれば、女史は偉大なるマーリンと同じく幻術師となる。たしかにイギリスらしい。もし実体があるならば、召喚師。
 わたしは魔力をぶつけてみる。
 魔力にひきずられて、空気が揺らめく。
 とたん突風となって、剣闘士に襲いかかる。しかし着ているトゥーガは揺らめきもしない。
 もし防御の術が施されていて風の影響を受けないというのであれば別だが、十中八、九、幻術だ。
 やっかいな。
 剣闘士は雄叫びをあげて迫ってくる。
 手には錆が所々浮いた無骨な広剣。
 飛んでかわす。
 トランクがバラバラになって、吹っ飛んでいく。
 カン高い鳴き声が五月蠅い。
 心にチリチリと響く。
 チラリと吠え立てるヨークシャテリアを見ながら、ルーンを描く。ヘゲルのルーン。意味は静止。
 投射するが効果を発揮しない。
 不気味な威圧感をもって、こちらへと迫ってくる。
 幻影にルーンが発揮するわけはない、か。
 幻影には2つのパターンがある。ひとつは物理的な空間において光の屈折などを用いる場合。もうひとはその人の心に見せているもの。どうやら、これは後者のよう。アストラルと同じく精神世界での出来事。
 精神と肉体は密接している。精神が歪めば肉体も歪み、また肉体が歪めば精神も歪む。精神を水とすれば、肉体は器。器の形にあわせて精神も形を変えるのだ。歯痛で苦しいとき、ただ肉体が痛いだけなのに、精神も圧迫させてしまい、余裕がなくなるのと同じ。
 わたしは再びヘゲルのルーンを描く。
 それを自分へと投射する。
 精神活動がゆっくりとしたものになる。
 シナプスにながれる電気信号が遅くなり、それにあわせて脊髄にながれる中枢神経の伝達もゆっくりとなる。
 とたん、剣闘士の動きは遅くなった。
 しかしじわりじわりと迫ってくる。
 カン高い鳴き声。
 精神に忍び込んでくる。
 うるさい!
 剣をふりあげる。
 ルーンを描く。
 魔術回路は関係ないのだが、精神が働かない。
 ゆっくりと描く。
 早く。
 剣がいやにギラつき、目に飛び込んでくる。
 ペギーの鳴き声が集中を阻害する。
 指が緩慢な動きのまま、有名なRに似たラドのルーンを刻もうとする。
 直線で形成された文字なのに、まっすく書けない。
 指が震える。緩慢に……。
 魔眼がきらめき、剣からエオのルーンが読みとれてしまう。
 わたしに“死”をもたらすルーン。
 それがギラギラと――。
 早く。
 ルーンの回路がうなりを上げる。
 たどたどしいほど、ゆっくり。
 脂汗が一筋、額を伝わり落ちる。
 さらに剣闘士は一歩ふみこみ、その背筋を用いて剣をふりかぶる。
 すでに殺傷圏内。
 相手はただ振り下ろすだけ。
 わたしはただ指を下に降ろすだけ。
 空気が唸る。
 殺す、というイメージが精神に侵入してくる。
 剣がゆっくりとふりおろされる。
 勢いなんていらない。
 触れれば、それで終わり。それだけで――わたしは死ぬ。
 もっと早く!
 剣が黒い影となってのしかかってくる。
 終わった!
 投射する。
 剣はわたしが今いたところを通過する。
 ラドの意味は移動。
 わたしは転移していた。
 そしてラドのルーンにはもうひとつ意味がある。
 ラドのルーンが魔術回路に埋め込まれ、唸りを上げる。
 全身が活性化する。
 ラドのルーンのもう一つの意味は知識の探求。片目の大神オーディンが知識を求め、放浪したことがその由来。
 マーガット女史の姿がおぼろげに感知できる。
 魔力が渦巻き、女史と犬に集まっていた。
 ペギーは使い魔か……なるほど。
 カン高く啼く、ヨークシャテリアなど私は知らなかった。女史を支援するための術を編んでいるのだ。
 再びラドのルーン。
 精神活動はイスのルーンで緩慢。だからラドで加速する。
 剣闘士はしょせん、わたしの心の中の幻。
 熟考を意味するソーン、目標達成のフェオのルーン、天啓のオスのルーン、洞察力のウィンのルーンを次々に描く。
 ルーンが煌めき、魔術回路をブーストしていく。ルーンという魔術回路は、そこから生み出されたルーンによってより活性化する。
 より早く。
 もっと。
 より的確に。
 もっと、もっと。
 より強大に。
 もっと!
 もっと!
 世界への過干渉による反作用を気にしている暇はない。
 目の前に様々な光が散る。
 金剛石の煌めき、深い青色、黒い深淵、狂った赤、翡翠、雪の純白。
 光の渦が目をチカチカさせる。
 魔力がごぅごぅと渦巻き、周辺から集まる。すべてから奪い尽くす。
 女史が集めたものも、ペギーが集めたものも、そのすべてを略奪する。
 カン高い犬の鳴き声が精神集中を阻害しようとするが、無駄だ。
 女史のミスだ。
 これほどの結界ゆえに起きてしまうミス。
 結界がより完璧なゆえに、魔法に近い結界ゆえに、穴ひとつないゆえに、ここにある魔力は限られていた。
 繋がっていれば外からの供給がありえる。しかしここは結界内。
 魔力は限られていた。エーテルも希薄となる。
 この結界内の魔力をすべて支配下に置く。
 なにもかも。
 すべてわたしの足下にひれ伏す。
 わたしの周辺で魔力が煌めき、たかぶり、渦巻いていた。
 この結界内の魔力の女王と化していた。
 魔力を失って、隠れていたマーガット女史の姿が現れる。
 顔色は青ざめ、土気色。唇はわなわなと震え、目はきょろきょろしていて焦点が定まらない。

「そんなことなんて……」

 唇から紡がれるのは咒ではなく、ただの呟き。

「……そんなことなんて……」

 ふん。この世の中にあり得ないことなどない。
 今おきたことはすでに起こったこと。一度でも起きたことは、不思議でも奇蹟でもない。
 ただの現象と成り果てる。
 カン高い啼き声。
 自失呆然としている女史にむかって、改めてケンのルーン。
 胸をかきむしる。
 生きたまま心臓を焼かれているのだ。苦しいに決まっている。
 口からチロチロと火が見える。
 とたん両眼から炎が吹きあがる。
 この場の魔力が集中しすぎた結果だろう。力が強すぎた。
 一気に火がつき、女史は燃え尽きる。服を残したまま。ただ肉体だけが燃え尽きる。まるでセルロイドのように。

 ――セルロイドのよう?

 素早くそこにいるペギーへと視線を走らせる。ころころと太ったヨークシャテリア。
 人体はこんなにはやく発火しない。それほどの魔力を注ぎ込んだわけではないし、なにより――。
 まだ結界で封じられたままだった。
 ペギーはこちらを睨みながら、うなり声を上げていた。

 ――そうか。

 わたしはペギーに見据えたまま、ルーンを描く。
 カン高い鳴き声。
 しかしもう無理だ。

「もう効かないぞ、ペギー」

 わたしは死のルーンを描く。
 それでもペギーはカン高く啼いて咒を唱えている――まるで魔術師のように。
 しかし魔力の絶対量が少ない。すべてはわたしが略奪した。

「犬の魔術師だとはな」

 常にマーガット女史の側にペギーはいた。いつも。犬の方が使い魔かと思っていたが、女史の方が使い魔だとは。
 カン高い鳴き声が呪詛となって精神に忍び込もうとするが、もう効かない。
 こんなカラクリなどわかってしまえば、なんて簡単。

「うるさい」

わたしは吐き捨てた。

「――死ね」

 ルーンが重なり、太ったペギーの体が捩れる。
 びくんと脈打って、動かなくなる。
 目の前にボロボロになった死骸がひとつ。
 夢を見ないように抱きしめて寝たのは何時のことだったか……。
 でもなんの感慨もない。
 ただの――犬の死骸。
 それがそこに、ごろり、とあるだけ。
 とたん、冷たい空気が流れ込んでくる。
 その冷たい空気を胸一杯に吸い込んで一息つく。
 そしてトランクを見る。
 バラバラに散っていて、服やら魔道書やらか散らばっていた。
 財布はパスポートはポケットの中だから、なんとでもなる。
 見切りをつけて、手ぶらで空港へと向かう。


「こんばんわ、アオザキ様」

 アルバと同じ独特のイントネーション。
 そこにはメイドがいた。
 金髪の巻き毛。碧眼。かわいらしい顔。青いエプロンドレスに白いフリルのついたエプロン。黒いイブニングパンプス、黒いストッキング。頭には可愛らしいカチューシャ。
 しかしその表情はない。能面のよう。冷たい人を突き放すような美貌。そして聞こえるのは熱い心臓の鼓動ではなく、機械音。歯車がかみ合う音。
 一度あったことがある。
 あの――自動人形。

「間に合いましたわ、アオザキ様」

 可憐にスカートのすそをつまんで会釈する。

「あのときは名前も名乗らず失礼いたしました。改めて自己紹介させていただきます。わたくしの名はミリエーヌと申します」

 わたしはため息をつく。

「アルバか?」
「いいえ。あのあとわたしはサンプルとして学院へ寄贈されましたので」

 微笑むが、それはただ口元がわらっただけ。顔の表情の変化はそれだけ。とても冷たく、だたの人形。
 やれやれ。アルバをとめたが、自動人形がでしゃばってくるとは、予想外だ。

「アオザキ様、あなた様は封印指定をうけております。どうぞ、学院にお戻り下さいませ」

 優雅な動作。しかしどこかぎこちない。機械仕掛けの限界か?

「すまない、ミリエーヌ。わたしは出ていく」
「まぁ」

 目を大きくして、驚きの表情を作る。
 まったく。わざとらしい。でもアルバの評価はあがった。これほどの自動人形を作り出せるとは。なるほど。古典主義だが、口だけではないということか。

「ご主人様が申されたとおりですわ。でも命令をお受けいたしましたので、すみませんが、ぜひともお戻り下さいませ」
「ひとつ聞くが」
「なんでしょうか?」
「わたしが拒否したらどうするつもりだ」
「その時には――」

 典雅な、でも冷たい笑み。

「実力行使させていただきますわ」

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