あのアルバがもってきた自動人形の顔が思い出す。
 端正な顔。
 整った顔立ち。
 でも――人間ではない。
 ただ冷たく整った、人間がこしらえた制作物。
 ただの機械仕掛け。
 ただの――人形。
 あれは―――――――――――――――――――――――わたしなのかもしれない。
















 「橙子、おまえは――だ」
















   うるさい。
















 「そうおまえは――だ」
















   黙れ。
















 「そう――」
















 仄かに昏い――。

































 はっと目を覚ます。
 全身が脂汗で濡れていた。
 気持ち悪い。
 わたしはかぶりをふる。
 長い髪が汗でぴったりと張りついて気持ち悪い。
 息も荒い。
 こんな夢を見るのはひさしぶりだった。
 あの――出来事。
 それがわたしを苛む。
 かぶりをふって、息を吐いて、少しでも熱を逃がそうとした。
 でも、躰はねっとりと熱い。
 それでも、心は妙に寒い。寒いというより――凍てついている。
 苦しいほど。
 時計を見ると午前6時。日本より北にある英国では夜明けが遅く、まだ暗い。

 ――?


 何か違和感があった。
 机。ベット。枕。しわになったシーツ。栞を挟んだ読みかけのジェフリー・アーチャーの本。蛍光灯。窓とカーテン。イスには脱ぎ捨てた服がかけられている。床はフローリングで、適当にすてた紙くずが散らばっている。ほかには――
 ふと花瓶がゆがむ。
 花は最初のうちは活けていたが、水が変えるのが面倒になって、捨ててしまいぽつんと瓶だけが残っている。その瓶が――ゆらめく。
 じいっと見る。わたしの魔眼が発動する。蒼崎の力の一部。そしてルーン魔術によって形成された魔術回路。
 花瓶のひび。
 それが薄く途切れながらも、ルーンを形どっている。ペオスのルーン。意味は隠された物、秘密――すなわち隠匿のルーン。
 ここはわたしの工房――すなわちテリトリー内。ここにこんなものを仕掛けられるとは?
 つい自嘲してしまう。
 マーガット女史にさえここには入らせていない。入る許可を与えたのは――荒耶かアルバか。
 わたしを監視しているというわけか。
 ふん、と鼻で笑う。
 わたしも礼園時代からくらべてずいぶん品がなくなったものだ、と思いながらも、相手がアルバであるとわかった。荒耶ならばこういう回りくどい技を使わない。それにルーン魔術を知っているのはアルバの方だ。
 いや、アルバと思わせておくためのひっかけで実は荒耶か?

「ともかく、女の部屋を覗くような下種など……」

 わたしは花瓶をもって、床に落とす。
 ややヒステリック気味な、でも意外と綺麗な音をたてて、砕け散る。

「……この方法で充分だ」

 アルバだと確信していた。
 荒耶はこんなヤツではない。あの地獄のような概念と化したような男が、こんな方法をとる理由など――ない。
 まずは汗で気持ち悪い躰を清めるため、シャワーを浴びることにした。
 とにかく、そのような下種のことなどはその後だ。
 このアパートメントで気に入っているのは利便性だけではない。
 シャワールームにある鏡が大きいことだ。
 シャワールームにはいると、わたしの顔がうつる。
 見てみると、不抜けた顔をしていた。
 そこにいるのはいつも見慣れた橙子。蒼崎橙子という存在。
 黒く長い髪。
 黒い瞳。
 まぁ整った顔。デッサン的に大きな狂いはない。
 かわいいというより、綺麗といった方がよい顔。
ほっそりとした首。その下には鎖骨とふくらんだ胸。
 腹筋とおへそ。ひきしまった腰。ふくよかだろうと思いたい腰。女。太股にすらりとした脚。
 まるで――人形のよう。
 唇は赤いし、頬の血色もある。胸も呼吸で膨らんだり縮まったりしている。
 生きているのはわかる。
 しかし――その瞳が。
 昏い。
 まるで、荒耶の目のよう。
 落ち窪んだ虚ろな『もの』。
 生気が欠けていて、やはり――人形のよう。
 そして黒く長い髪。黒檀のような美しい髪。
 でも、わたしは――。
 考えるのはやめろ。
 でも。
 やめろ。
 しかし。
 そこには答えはない。
 嘘。
 思考が散り散りになる。
 魔術師としての昏い精神と、橙子の人格。
 ふたつがせめぎ合っている。



  「橙子、おまえは――だ」



 声が蘇る。



 駄目だ。考えてはならない。



  わたしは――でない、けっして。



  違うわ。わたしは――よ。



  「お前は――だ」



 声がつげる。



 昏い瞳の黒髪の女が目の前にいて。
 笑っている。
 嗤っている。
 酷くわらっている。
 その瞳に見覚えがある。
 荒耶宗蓮という男の瞳。
 絶望をしった瞳。
 信じていた宗教を信じられなくなった者の瞳。
 底を見た者だけがもてる、冷たく胡乱な苦悩にみちた目。
 それは――わたしの瞳でもあるのか?
   駄目だ。考えてはならない。
 わたしは女にひじをぶつける。
 鏡像はようやく「わたし」になる。
 けっして――にならない。
 荒耶ならば……この答えを知っているのか……。
 躰に震えが走る。
 シャワーをあびず、裸でシャワールームにいれば躰が冷えるのは当然。
 だから震えたのは寒さのせいだ、そうなんだ、と思った。
 でも、鏡の中にいる彼女は、嗤って、いた。
 今のふがいなく虚ろな、蒼崎橙子という愚かな女を、嘲け笑っていた。

◇     ◇     ◇
「いったいどうしたんだい、アオザキ?」

 アルバはいつものように笑いながら工房に入ってきた。その手には赤い薔薇。なんて気障。
 まったく。
 もってくるのならば、芍薬か牡丹あたりにすれば、まだ可愛げがあるというのに。

「麗しい君がそのような顔をするなんていったい……」

 まったく。
 ここまでシラを切られるとこちらとしては笑うしかない。
 わたしは上着を羽織る。

「デートしましょう、アルバ」
「デ、デートだって……」

 そんなに驚く顔をしなくてもいいと思うけど。

「そうよ、デートよ」

◇     ◇     ◇

 いつものホワイトハートではなく、バーへ。
 暗く退廃的な雰囲気があるかと思えば、逆にわいわいと煩い。
 カウンターの向こうではバーテンダーがシェイカーをふり、カクテルを器用に作っている。

「いいところだね、アオザキ」
「こちらよ」

 そういって、アルバを奥へと案内する。

「まさか?」

 金色の眉を器用に片方だけあげる。

「そう。勝負しましょう」

 そこにあるのはビリヤード台。
 煙草の臭いとアルコールの臭い。そしてカン高い球が弾ける音。

「いいだろう、アオザキ。私の腕前を披露しよう」

 壁にたてかかけてある貸し出し用のキューをとり、重心やストロークの長さを確認する。
 わたしも同じくとって、女性用の短いものから選び出す。

「でなにを楽しむんだい」

 ウィンクするアルバ。口元には余裕の笑み。

「ナインボールかい?」
「いいえ、スリークッションよ」

 はやりのパワーと運のゲームのポケット台の奥にひそかに鎮座しているポケットのないキャロム台へと歩みをすすめる。
 ひゅ〜と口笛をふき、ついてくる。

「ふふん、通だね」
「そう? ビリヤードは4つ玉かスリークッションでないと」

 わたしはアームバンドをつけて、裾を折り返す。
 アルバは楽しそうにチョークをキューの先につける。

「よおしアオザキ。ハンデをあげよう。君はこんな通好みのを知っているのだからある程度は撞けるのだろう?」
「そこそこ、ね」

 礼園の寮を抜け出して、ビリヤード場に通ったのが懐かしい。
 日本ではスリークッションや4つ玉の方が主流だったのに。映画の影響で筍のようにビリヤード場やプールバーが乱立して、すべてポケット台ばかり。

「よし、ハンデは」
「いらないわ。それとも、それを負けた時の理由にしたいのかしら?」
「はん、傲慢すぎるぞ、アオザキ」

 格好つけてこちらにキュー先を向ける。

「圧倒的な勝利を思い知らせてやる」

 スリークッションはルールは簡単なゲーム。でもとても難しいゲーム。
 ポケットのないキャロム台というビリヤード台のラシャ(床の紙)はポケット台よりも滑りやすいものを用いている。その上に球は3つ。このわたしの手玉とアルバの手玉は白。わたしの方とアルバを区別するために、わたしの方のには黒い点が描かれている。
 そして朱色の的玉。これを当てる前に最低3回はまわりにあるクッションをつかってバンクしなければならない。もちろん途中で相手の玉にヒットしてもいいし、ヒットしてからまたクッションしてもよい。ようは的玉に当たる前に最低でも3回はクッションを用いること。失敗したら相手の番。何回撞けたか、何回連続で撞き続けたかを競う競技。そして規定回数に先に到達した方の勝ち。ルールはこれだけ。シプルなゲーム。
 最初はわたしから。
 まずは定石の撞き方。
 ただ定石どおり撞いても駄目なところがおもしろいところ。常に相手の手玉、自分の手玉、そして的玉の位置を考えて撞くゲーム。
 一回だけならば素人でも成功する。しかし連続となると撞き終わって転がりきった後の位置が重要。常に後のことを考えて、ひねりをくわえ、押したり引いたり、短クッションの方がいいのか、長クッションの方がいいのか、常に考える思考のゲームでもある。
 ブリッジを作って撞く。
 理想的な的玉との位置。
 ストロークをとって、狙いを定める。
 今度はひねりをくわえるため、右下。
 少しずれたが許容範囲。
 わたしは9セットついた。

「うーん、やるねアオザキ」

 嬉々とした表情浮かべて、アルバはセットする。綺麗な指がしなやかなブリッジをつくる。
 そのブリッジだけでアルバの腕前がわかる。びしりと決まっていて、とても美しい。強敵だ。
 キューで球を撞く。
 長クッションからのバンク。的玉に当たり、手玉はまたよい位置へ。

「どうだ、やるだろう」
「あぁ。うまいよアルバ」

 白い手玉がバンクし、的玉に当たる音だけが響く。スコア表のビーズを動かす。
 ひとつ。ふたつ。みっつ。……調子に乗ってきたのか、勢いがある。
 わたしはサイダーで喉を湿らせると、じっと視ていた。
 ……やっつ。ここのつ。とお。じゅういち。
 アルバはのっている。しかしブレ始めている。集中力が足りない。真芯からあたるところがずれて、かすったりしている。
 わたしの視線に気づくと、にやりと笑う。
 そしてウィンク。

「おー、アオザキ。ミスったね」

 よくいう。
 セフティだ。相手に手番を渡す際に撞きづらい位置に手玉や的玉を配置する。しかしこれは……。
 手玉と的球がくっついていた。
 的玉が動いたらファールで相手の手番に。
 わたしはじっと観察する。手をすかして、光がはいるかどうかみてみる。駄目。ぴったりくっついている。
 こうなると……。
 わたしはキューを高く構える。
 マッセ気味に撞く。
クッションの位置と的玉の位置を何度も確認する。マッセの難しいところは、水平方向の視点ではなく、垂直からの視点であるということ。
 そのため球との厚みが読みづらい。
 撞く。
 弱い?
 手玉がぐるりとまわって、クッションへと動く。そのあとマッセであたえられた回転で逆にまわって……。
 いっかい。
マッセの回転でさらにクッションへとからむ。
 にかい。
そしてまたクッションで弾む。
 さんかい。
 でも回転がなくなった手玉はヨロヨロと。的玉へと伸びているが弱い。
 身長が低い分、力のかかりが弱かった。
 のろのろと動く。
 失敗すれば相手の手番。
 アルバも息を詰めて見つめている。
     とどけ。
 ころん。
     とまるな。
 ころり。
     いけ!
 こつん。
 あたった。
 ため息が漏れる。

「見事だ、アオザキ」

 アルバは大げさに拍手する。



 その後一進一退の勝負が続く。
 簡単なミスはなく、お互いにセフティをつくっては相手に渡すという心理戦。狙いづらい角度にしたり、クッションの側に手玉と的球を重ねたり、と色々。
 これだけの勝負となると、ギャラリーも増えてきた。
 これだけの美男子と美女がついていて、しかもテクニカルかつ高度な試合をしていれば注目も集めるというもの。
 このスリークッションのいいところはビリヤードの要素がほとんど入っているところ。キャノンにコンビネーション。エイトボールやナインボールのような運の要素がより少なくなる。ただその者の技術だけが綺麗に結晶化される。
 それゆえスリークッションや4つ玉はビリヤードの基本と言われている。
 ギャラリーが増えると、アルバはのってきた。ワザとギャラリーに受けるような撞き方をして、イマジナリィポイントがきつい撞き方をする。
 わたしはただイマジナリィポイントに余裕のある撞き方ですすめる。
 余裕なんてなかった。アルバの腕は凄い。日本では滅多にお目にかかれないほどの腕前。
 ひとつのミスでいつでも逆転という互いの腕は、ただ正確に撞くことを余儀なくされた。
 互いに40ポイントを超えたあたりで、ミスが多発しはじめる。
 まぁプロでないし魔術師ならばこんなものでしょう。
 1キューが1分にも5分にも思えるような時間。
 ただ手玉と的玉の動く先を読み、力を、撞き方を考え、静かに思った通りにただ撞く。
 人間力学に基づいた腕の動きとニュートン物理学に従った法則だけが場を支配する。
 そして――。

「花瓶の件はわかる? アルバ」

 わたしは声をかける。
 低い声。
 その言葉にアルバは反応する。

「花瓶ってなんだい、アオザキ?」

 なんのことだかさっぱり、という表情を浮かべたが、一瞬よぎった動揺は見逃さない。

 そのままブリッジをかまえ、撞く。

「シット!」

 アルバらしくなく、口汚い言葉。
 外したのだ。
 こちらの言葉にリキむなんて――なんて愚か。
 憎々しげに睨んでいる。

「突然、話しかけてきていったいどういうつもりだい?」

 ワザと陽気にしゃべっている。しかしその碧眼には苛立ちが見え隠れしていた。
 そしてマッチポイントを迎える。
 かまわず、わたしはテクニカル・ブリッジをとって、キューを構える。
 これを撞ききれけば、おしまい。
 外したことなど考えない。セフティなんて考えたら、集中力が分散してしまう。
 今だけを考える。
 撞点は中心。空クッションの1/3のポイントが目標。
 ストロークを確認する。そしてテクニカル・ブリッジをつかって……撞こうとした時。
 長い髪が肩からはらりと落ちた。
 手玉はまっすぐクッションへ向かい、バンクし、また弾け、そのまま的球へ。
 そして当たる。

「お見事、アオザキ。君の勝ちだ」
「わたしの負けよ」
「?」

 アルバは首をかしげる。
 わたしは髪を梳くって見せる。

「わたしの髪が手玉に触れたわ。ファールよ」

 わたしはそのまま座席に座る。

「わたしの負けよ」
「いや君の勝ちだよ」

アルバは大げさにいう。

「君は女性でこれだけ撞けるなんて、素晴らしい」

 ワザとギャラリーにいう。ギャラリーもざわめくが、

「それが負けた時に言い訳なのね」

 空気が重くなる。
 突然の殺意にあふれた目つき。優雅な立ち居振る舞いが消え、憎々しげにこちらを見ている。

「わたしの方が先輩なのだよ。ルーンだって人形だって、すべての栄誉は私だけのものだった。なのに、なのに。アオザキ、君の態度は、酷く。そう酷く傲慢だ。だから低能な連中はアオザキ。きみのその不遜きわまりない態度によって、わたしの方が下だと認識してしまうのだ。そんな偽りに満ちた認識をだ」
「いいたいことは――それだけ?」
「な……」
「そんなことはとっく知っていたわ。なのに、それがどうしたの?」
「どうした、だと……」
「まったく。外見だけを気にしていてはまったく役に立たないわ。外見はただの外皮一枚。人形師ならばわかるでしょうに。それよりも中身、性能、そして質。それこそがわたしたち人形師が目指すべき点だというのに」

 アルバは怒りにふるえ、いつ飛びかかってきても不思議ではないほどの様子だった。
 嫉妬の視線が向けられる。アルバの視線。それがわたし、橙子の優越感をくすぐる。
 なんて――心地よい。そう、わたしは――。

「……失敬するよ、アオザキ」

 うまく自制できたな、とそこだけ感心する。

「アオザキ、君の勝ちだ。ここは私が支払っておこう」
「いえ、いいわ。それよりも……」

言葉を切る。

「新しい花瓶はいらないからね」
「あぁ。覚えておくよ。アオザキ」

 そういってマントを翻して格好だけつけて出ていく。
 まったく。
 外見ばかり気にしていて、どうしようもない。
 愚かな。
 アパートメントに帰ると、アルバが持ってきた真紅の薔薇の花束が残っていた。もったいないから、活けさせてもらった。
 せっかくの男からのプレゼントだ。せいぜい使わせて貰おう。



 それでも。
 コルネリウス・アルバとしばしば会った。
 もちろんアルバと荒耶とわたしの三人で会合をもつこともあったし、アルバとふたりっきりで会うこともあった。要はそれが有益であるかいなか、ただそれだけが判断基準だったから。
 アルバの口の端々にはわたしへの非難、やっかみ、嫉妬が見え隠れした。それは心地よかった。わたし、蒼崎橙子という存在への憧憬や尊敬そして畏怖というものも混じっているからだ。
 そう。
 わたしは希代の人形遣いとして名を馳せ始めていた。
 他の者達が作る人形はひどいものであった。単なる人形だったのだ。
 血液のかわりに水銀。
 心臓のかわりに歯車。
 骨のかわりにスティール。
 ゴム。滑車。バネ。
 他の者が作るのは、オートマトンと呼ばれるもので、まさしく人形だった。
 しかしわたしがつくるものは違った。
 血。肉。骨。胆汁。神経。そう人間だったのだ。わたしが目指すべき到達点は人間の創造、肉体の原型だった。
 他の者がつくるのは人工生命の誕生だった。しかしそれではけっして「 」に辿り着くことはない。
 たとえば今コンピュータがあり、AIという概念もうまれ、人工知能が作られているが、現在の科学による人工知能ではできないことがある。それは、転換だ。
 別の発想。別の視点。それができない。人工知能の限界は入力に対しての反応でとどまっているところだ。今あるデータベースから好き嫌いを毎日、ランダムで割合を決定し、反応は95(%)を確定して、残り5(%)を無作為に決定して、きまぐれ、を生み出したとしても。昨日嫌いなものが、なんらかの出来事によって突然大好きになる、というのはまだできていない。
 コンピュータは今のところ、推論などの別のデートベースとのリンクによる発想はありえるが、180度の転換。昨日のことを忘れてまってまったく違うことを今日言うということは、まだできない。データベースに設定されたもの以外からの選択することができない。
 本当の知性はそれが可能。そういう精神が必要なのだ。
 わたしが作るのは人間ベースにした。おもしろいことに生物の神経は同じもので活用している。痛み、触覚、快感、かゆみ。そういったものは同じ神経を用いている。そのため強すぎる刺激は痛みとなり、生体として危険かもしれない――あるいは危険である――と知らせる。
 だから、手当てが効果を働くのである。痛い時に、別のものが触れてなだめることによって、神経に別の信号を流す。痛覚の信号よりも触れてなだめる方の信号が上位になるのならば、痛覚の信号が緩和されるのである。神経という道は一本だから。
 脳というものは、そういった神経接続の山である。シナプスと呼ばれる神経が回路をつなぎ合わせ電気信号を流し、反応している。
 そういう意味ではわたしたちの感情や理性は電気信号に置き換えられる。しかしだからといってコンピュータ化したり、肉体を捨てることは意味がない。
 なぜならば、これは人間としての経験が必要だからだ。
 精神とはおもしろいもので、そのように扱われるとその扱いにしたがって変化する。
 ストックホルム症候群がある。銀行強盗で人質になった者が最後は強盗に共感して仲間意識をもち、協力するという事例だ。個として生き延びるために精神は変化するのだ。
 そのような扱われると精神がそのように変化する。もし肉体を最初から捨ててボックスで制作した場合、それに対してボックスとしてふれあい、対応するだろう。それにより、その知性の精神はボックスとして扱われることが当たり前となり、自由な、人間としての知性や精神を発揮しない。というよりできない。
 家、家族、社会、血縁、隣近所という血縁以外の外的要素、上の者、下の者、愛情、憎悪、親愛、敵対――そういった周辺の環境によって決定される事柄が多すぎる。それらからの刺激や信号によって、どこまでふるまってよいのか、どこまでやると自己保身ができるのか、どこまでやると罰せられるのか、といったいわゆる『一般常識』というものが覚えるのだ。
 なのにあいつらときたら。
 ただの人の形をしている、として扱わなくてそのような教育ができると思っているのか? 知識だけ与えてもそれが身についていなければ、とっさの行動として反映されなければまつたくの無意味だ。そんなのはただのコンピュータによるデータベースと何ら変わりない。
 だから、わたしは人間ベースにした。
 それはようやく形になろうとしていた。

◇     ◇     ◇

 荒耶はどう思ったかしらないが、しばしば荒耶とふたりっきりで会合をもった。
 場所はいつものホワイトハート亭。
 わたしはサイダー、彼はビールを飲むのがいつものパターン。
 わたしの活動を監視していたのがアルバならば、わたしのこうした態度は当然だろうし――もし荒耶ならば……それでもいいと思っていた。

 深く昏い瞳。艶のある漆黒の瞳をもつこの男と話しているときだけ、少しだけ、心の中の澱がなくなる気がした。

「で――蒼崎。呼んだ理由は?」

  返答に困る。なぜなら、その瞳を見たくて、その声を聞きたくて呼びつけてしまったからだ。
 まったく、わたしはいったい何をしているのだろう?
 でもすぐにでっち上げる。

「完璧な肉体に完璧な魂をいれたら、どうなると思う?」
「ふむ――」

しばし考えてから、漆黒の男は低くゾクゾクするような惹かれる声でしゃべりはじめた。

「それはただ無意味な者となり果てる」

 その答えに非常に興味がそそられた。

「それはただの赤子、原罪もこの世の汚れもなにも背負っていない存在であるといえよう」

 でも、それでは――。

「『人』としては不完全ね」
「うむ。獣に徳があるかいなかという説法に似ている」
「でもこの場合は完璧ではなく、無垢なのでは?」
「しかし無垢も完璧のひとつであることに相違はあるまい」
「では完璧な肉体は何だと推測するの?」
「存在しない」

 低いゾクゾクさせる声で、ただ一言。

「そうね。進化と退化は同じものだから。馬の蹄がよくあげられる例だけど、馬は『疾走する』という行為に関しては進化した脚をもっているわ。でもあの蹄ではつかめない。疾走すること以外できない。それ以上進化する余地がなく、進化の袋小路に入り込んでしまっている。そういう意味では退化ね」
「うむ」

 その瞳はわたしを見つめる。
 その視線に心が縛られる。囚われる。
 こんなにも。
 なんとか声を出して、返事する。その声は――かすかに震えていた。

「やはり、原型ね」
「すべてのものに発展しえる可能性を秘めた肉体……しかしそれは初源の海にただよう単細胞生物となんらかわりないであろう」
「では魂は?」
「魂もまた細分化した。精神と肉体にひきずられて輝ける瑠璃玻璃のような魂は消え失せ、微細な硝子の破片になったと言えよう」
「では原型の魂と原型の肉体がそろえば……」
「それならば……「 」に辿り着くやしれぬ」
「原型……ね」

 わたしはそっと嘆息した。
 やはり人間創造しかないらしい。
 アルバが作っているような機械仕掛けの人形、オートマトンのような品物ではなく、きちんとした人間。しかもエーテルが満ちあふれていたときにうまれた素晴らしい人間を。
 すこしクラクラする。サイダーに酔ったようだ。

「少々飲み過ぎたようだな」
「……えぇ」

 ついハイピッチで飲んでしまった。
 いつもはサイダーを3本くらいなのに、今日はもう7本。倍以上のペース。
 酔っても仕方がない。
 ……仕方がない?
     ドクン
 駄目。こんなこと考えてはいけない。わたしは「 」に辿り着く。辿り着きさえすれば……。

「荒耶。魂の原型とは何?」
「神代においては神、仏の心そのもの」
「日本神話では……和魂や荒魂とか……あったよね……」
「うむ。4つの魂があり、人間はそれによってできている」
「わたしたちのやっていることは、徒労じゃないかしら?」
「――それで?」

 あぁわたしは何を言いたいのだろう。
 荒耶に管を巻いている。わかっているのに――やめられない。

「わたしたちは進歩している。進化してしまっている。なのに原型だなんて――」
「しかしすべての源にはすべてを決定する因子がある。そこへ至れば……」
「リリスの話を知っている?」
「――夢魔の話か?」
「あぁそう。アダムの前の奥様。イブよりも先に作られた女性」
「アダムに逆らって放逐されたとかいうアレか」
「そう」

 心が軽い。口が滑っている。

「では日本神話のヒルコは?」
「イザナミ、イザナギ神の最初の子供。骨のない生物だな」
「そう」

 荒耶の顔がいぶかしげにわたしを覗きこむ。
 いやこれは願望。
 この人はわたしなんかに興味なんてない。あるのは死だけ。「 」に至る道だけ。
 けっしてわたしなんかに興味なんて抱くことんてない。

「最初にうまれたのはみんな――骨なしで失敗作」
「……」
「でも、わたしはそうじゃない」

 いつも言い聞かせている言葉。

「わたしは……」

 荒耶の顔が横になっていく。頬に冷たいものが当たって気持ちいい。
 何も考えられない。

「……」

 なにか荒耶の低いつぶやき。ゾクゾクする声。
 なんて心地よい。
 なんて――。
















 揺れている。
   ゆら。ゆら。ゆら。
 暖かい。
   ゆらりゆらり。
 広くがっしりとした背中。
   ゆらゆら。
 気持ちいい。
   たゆんだ光景。
 風が吹いている。
   懐かしい感触。
 ネオンや街灯の光。
 今は夜?
 あぁ――どうでもいい。
 この心地よさにただ沈んでいくだけ――。
















「起きろ、蒼崎」

 冷たいシーツの上。目を覚ます。
 暗い自分の部屋。そこには荒耶がいた。

「ここはわたしの部屋なのに、どうしてあなたがいるの?」
「酔っているな」
「……酔っているの?」
「うむ」

 強い断定。心地よい。これだけの強い意志があったのならば、あるいは……。

「では失礼する」
「わたしを置いていくのね」

振り返り帰ろうとした荒耶の脚がとまる。

「まるで童のようだな」
「荒耶。本当に聞きたいことがひとつだけあるの」
「なんだ」

 たとえわたしが酔っているとしてもきちんと対応してくれる。

「わたしの魂は――なに?」

 こんなときに聞くものではない。でも、こんな時でないと聞くことができなかった。

「わたしの起源は――なに?」

 苦渋に満ちた漆黒の男は、ただの一度も視線をそらさずにわたしを見続けていた。
 そして近寄ってくる。

 「蒼崎。おぬしの起源は――」

 言おうとしている荒耶を掴んで、ベットへと引きずり倒す。
 楽しくてけらけらと笑ってしまう。
 憮然とした表情を浮かべている。
 しかしその視線はなぜか――哀しい。
 わたしは彼に覆い被さる。

「わたしの起源を教えて――荒耶」

 そういって、彼にそっと躰を預けた。

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