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時刻は、既に零時を指そうとしていた。
ベットと机だけで、もう余分なスペースは無くなってしまうほどの狭いアパートの一室。
いつものようにベットに腰掛ける式は、彼女の前に立つ僕と視線を合わそうとはしない。
「……式?」
「なんだよ」
答える彼女の言葉は、会話を畏れるように、短く小さい。
明らかに常に無い彼女の態度に、不安がじわり、と胸に湧き、疼いた。
「ちょっと、おかしいぞ。君」
「俺がおかしいのは、もともとだろ」
「そんな誤魔化しかたはやめて欲しい」
「・・・ごめん」
いつもより、強気で。でも、いつもより、弱気で。
精巧すぎる硝子細工のように、あまりに儚く感じられて。
隣に腰をおろした僕は、その彼女の左手首に、そっと手を置いた。
かちゃり。
僅かに耳慣れない音を立てるのは、琥珀色の宝石をあしらった腕飾り。
同じ物は、僕の左手首にもある。
その腕飾りの意味を思い出したのか、それに視線を落としたまま、
式の耳が僅かに朱に染まっていった。
「……でも、トウコに、そんなこと、やらすわけにはいかないじゃないか」
「それも論点が違うよ、式。
方法が問題なんじゃなくて、そもそもの目的が問題なんだから」
なぜか言い訳めいた言葉を繰り返す式に、僕は軽い溜息をつく。
顔をあげないままに式が言った、『そんなこと』。
それはつまり、昼間、橙子さんが口走った『人形との性交渉』を意味している。
『要は、幹也人形君に、そういう感覚を伝達することができれば良いんだ。
さすがにこういう方法だと、いろいろ不都合もでるが、その程度はこちらで対処しよう』
なんて、トンデモナイ台詞と共に、僕たちに手渡された一組の腕輪。
それはは、僕たちの感覚を人形君へと転送する道具。
要するに、橙子さんが幹也人形君を弄ぶのが嫌なら、僕と式が変わりにエッチしろ。
とまあ、こういうことになる。
妙に張り詰めて出て行った直後に飛び出た、あまりと言えばあまりの提案。
なんて言い返すべきか。
眩暈さえ感じながら頭を抱える僕を尻目に、式はその腕輪を受け取ると逃げるように、事務所を後にした。
『事情は、式に説明してある。詳しいことは彼女から聞くとよい。
私から君に、事の顛末を告げても構わないが、それは式が嫌がるだろうしね』
呆然と取り残された僕に、橙子さんは、どこか物憂げな表情で続けた。
『ただの笑い話ですむ予定だったのだがね。式の直感を見くびっていた、
私の失態といえば、失態だな』
『所長?』
『……文句は明日、受け付けるよ。黒桐。今は式を追った方がいい』
提案の内容はめちゃくちゃだったけど、その声に僅かに真摯な響きが帯びていてことに、
その時僕は初めて気が付いた。
そんな橙子さんとの会話。
それを思い出しながら、湧き上がってきた溜息を押し殺す。
なにが、なんだか。
さっぱり事態が飲み込めない。
式はなにか、僕に隠してる。
そんなことはわかってるけど、何が一体、彼女に『こんなこと』までさせるんだ。
橙子さんの提案はめちゃくちゃだった。
でも、橙子さんが、その式を気遣っていた。それも、わかった。でも。
それでも、こんなのは―――。
「式、やっぱりやめよう」
「……別に、俺を抱くのなんて、いつものことじゃ―――」
「僕が式を抱くのは、君を好きだからだ」
強く、はっきりと。僕は式の言葉を否定した。
「別の目的のために、式を抱くなんて、絶対に嫌だ」
こういうのは―――正直、気分が良くない。
式が言いたくないのなら訊かない気でいたけど、
そうも言っていられない。
添えた手に力を込めて、握る。
「式、本当にどうしたんだ。僕にはさっぱり、事情がわからない。
大体、その『彼女』って言うのは―――」
「言わない」
今度は式が、僕の言葉を遮る番だった。
ぎゅ。
同時に、式の左手が、僕の右手を握り返していた。
「式?」
「ごめん、幹也。それ―――聞かないで、欲しい」
そして、式はようやく顔を上げてくれた。
その瞳にうっすらと浮かぶ涙。
その理由がわからないことが、酷く、僕の胸を刺す。
「……式」
「聞かないで……欲しい。彼女の、ことは。まだ」
途切れ途切れの言葉。漣のように震える、声。
何故か、式は全てを語ってくれない。
「ごめん」
繰り返される謝罪。
僕を見つめる、彼女の瞳。
事情を言わないこと。
でも、それは嘘をついていないことの裏返し。
「ごめん。勝手なこと、言ってるの解ってる。けど―――」
そう。彼女は、事情を隠していることを隠しては、いない。
だから。
「……うん、勝手だね」
だから、僕は彼女の肩を抱いて、引き寄せた。
「ごめん」
「僕だけ仲間ハズレなのは酷いと思う」
だから、僕は彼女を胸の中へと抱きしめた。
僕を怒らせることと引き換えにでも、答えを拒絶するというのなら。
それは、僕のことを想ってくれていることの証だろう。
「―――ごめん」
「・・・橙子さんと式の間の内緒ごとって、ちょっと、恐いけどね」
他人は『甘い』と嘲笑うかもしれない。
でも、それを、信じさせてくれる想いが彼女の言葉にあった。
彼女の言葉を、信じるだけの想いが、僕の心にあった。
「……ごめん」
「式」
髪を撫で付けながら、耳元で囁くと、式の体が微かに震えた。
それは、いつもの合図だったからだろう。
つまり、僕が式を求めるときの合図。
「言うまでも無いけど、僕は君がほしいから抱くだけなんだからね」
「……こだわるんだな」
「立場が逆だったら、式もこだわると思うよ」
「多分、ぶん殴ってるよ。俺なら」
「あのね」
くすり。
僅かな笑いを零して、式は顔をあげた。その表情に、ようやく穏やかなものが見える。
「…幹也」
そして僕たちはゆっくりと、唇を重ねた。
「ん」
舌も使わずに、ただ、口付ける。
お互いの唇同士を重ねて、ただ温もりを確かめるだけのキス。
それでも、僕たちには充分すぎるほどの快感を与えてくれた。
肩を抱き、息を交わし、鼓動を感じて、温もりを奪う。
それだけの行為に、体中の血液が昂ぶり、思考が蕩けていく。
―――そのまま、時間だけが過ぎ、どちらもが時間を忘れた頃。
二人はようやく、身を離す。
「幹也」
「式」
離れた唇同士から、涎が一筋、糸をひいていた。
潤んだ瞳で、見詰め合い、そしてまた、僕は彼女を抱きしめた。
「幹也…幹也……みき、や……」
僕の首に強く抱きつき、何度も僕の名を繰り返す彼女は、
熱に震える声で、言った。
「…抱いて…下さい…」
と。