/3.


橙子と共に入った部屋は、事務所の三階にある一室だった。
天井、壁、床。視界に入る部屋の全ての面に刻まれた魔術文字がこの部屋のあり方を雄弁に語る。

部屋を照らす光源は、天井に刻まれた数々の文字の一つ。
それが限界なのか、あるいは意図的なものなのかは知らないが、その光量は少なく、
狭い部屋には薄い闇が満ち、退治する相手の表情さえ、はっきりとは見ることは難しい。

―――もっとも、目の前の魔女の思考など、その表情から伺うこともできないだろうけれど。

「さて」
こつん。
一際高く、ヒールの踵で床を打ち、橙子が振り返る。
薄闇の中、仄かに蒼く灯る瞳が細められたのがわかった。

どこか笑っているようにも見える橙子の表情に、私は苛立ちを隠せない。
詰問するため、一瞬、息を溜め、そして。
「どういうつもりだ。トウ―――」
「巫条霧絵」


……私の声は、その単語に無様なまでに打たれ、消えた。


「二ヶ月前。例の事件から丁度一年後、彼女は死んだ。知っていたか?」
「―――」

「何処で、どうやって、その最後を迎えたか。
 君は知っていたか?」
「―――」
淡々と告げる橙子に、黙って、私は首を横に振った。
……首を、振るしかできなかった。
 
言葉が、出ない。
予想はしていた。いや、確信さえしていた答えだったのに。

なぜ、こんな―――。

「知らない―――知るわけ無いだろ。もう、興味なかったから」
橙子から目をそらして、私はそれだけを呟いた。

心が、痛い。今更、どうして。

今更。私は。何を―――何に、怯えて―――。

怯え?
ああ、そうか。私は、怯えているのか。だとしたら。


―――だとしたら。なんて、無様。


橙子は、沈黙する私の、その心を見透かすような眼差しを浮かべる。
「まあ、当然だろうな。そんなこと、君が知る由も無い。
 私だって、彼女の末路を知ったのは単なる偶然なんだから。
 だから、君が気に病む必要なんて一つも無いんだぞ、式」
「気に病んでなんか、ない」
耳に障るトウコの言葉。でも、それを否定する声は我ながら、どこか、ひび割れていた。

「強がれるのは重畳だね。……まあ、感傷も悪くはない。
 『どういうつもりだ』と君は聞いたが、その答えも、私の感傷、と言う他無いわけだしな」

―――こいつが、感傷?

その思いをまともに見て取ったのか、橙子は苦々しく笑った。

「そんな胡散臭い眼で見るもんじゃないぞ。失礼な」
「感傷なんて似合わない言葉、いうからだ」
「そいつはお互い様、と言いたいところだが、違うね。
 私も君も、行動の要因に対して感傷が占める割合は、その実、低くはない。
 ついでに言えば鮮花もか。違うのは黒桐ぐらいなものだろう…と話がそれたな」
どこか自嘲気味にトウコの口元が歪み、醒めた瞳が私を捕らえる。

「では事情を話そうか。
 そんなに身構えることはないよ。聞いてしまえばそれだけの話だからな」

しゅ。
よどみない動作で、橙子は取り出した煙草に火を灯し、咥え、吸い、吐き出した。

暗がりに漂う、紫煙の香り。
いつも、ただ、不快なだけのその香りに、ほんの僅か、心が落ち着いた気がした。

そんな私の気持ちさえ、橙子は読み取れるのか。
私の心の中の漣が、収まったのと同時に、橙子は再び口を開き、紡ぐ。


「彼女は、あるビルの上から飛び、墜ち、死んだ」
そんな苦い言葉を、苦い煙と、共に。



街が眠り、夜の闇が静かに大地を満たす頃。
蒼崎橙子は、身一つでそのビルの屋上に立っていた。

見上げる空は、奇妙な程に、明るく、白い。
天に坐す満月が、夜を染め上げていたためだろう。

白い闇。
陳腐なそんな言葉が、しかし、見事なまでに、その夜を形容している気がした。

「君が両儀に殺された夜も、こんな晩だったのかな」
一人、呟いて、彼女はこつこつとコンクリートの床を打って、足を進めた。
歩を進める先にあるのは、夜と星と月。

そして―――少女の、霊。

屋上を囲うフェンスの僅かに上。
満月を背にして、宙に漂う少女の姿があった。

「今は、お供はなしかね。寂しいだろう、巫条霧絵」
呟いて魔女は、足元に煙草を投げ捨てた。

コンクリートの床に、落ちる前にその吸殻を、風が虚空へと舞い上げた。
舞い散る赤い燐と共に、少女の姿が微かに揺れる。

夜の闇に溶ける程に黒く、艶やかな長髪が、風に揺れ。
雪のように白く、そして儚い肢体が、月明かりに透かされて、瞬いた。

明らかに、常を逸しているその少女のあり方は、
しかし、それを奇妙に感じさせないほどに、幽玄の美を放ち、そこに在る。

「なるほど。式をして『魔的』と称させるだけはあるよ。
 これほどまでなら、あの時も私が出向いてもかまわなかったかな」
一歩、一歩。少女との距離を詰めながら話し掛ける魔女。
しかし、少女は魔女を一顧だにしようとしない。

「―――」
「まだ、私がわかるのか。巫条」
問い掛ける言葉に、少女は虚ろに、あるいは夢見るように。
ただ、空を見上げ、ただ、月を見上げる。

「・・・さすがに、無理か」
溜息と共に呟いて、女は、地に落ちた煙草を踏み消した。

「君がここから飛び降りた時、実は傍を通りがかっていてね。
 まあ、死んだのは知っていた訳だ。しかし、まだ成仏してなかったとは思わなかった。
 つまりは、『納得して』死を選んだわけではないのか。君は」
……それも無理も無いが。
声には出さずに呟いて女はまた一歩、間合いを詰めた。

「このビル、建て直すことになってね。
 つまりは君は、邪魔なんだ・・と、言葉はもう理解できないか。
 まあいいさ。無意味だろうが、一応、聞くだけは聞いておくと良い」
すでに、魔女は少女の眼前にいた。2mに満たない二人の間。
それはいつでも、蒼崎橙子が少女の霊を排除する手段を行使することのできる距離。
しかし、橙子の雰囲気に変化はない。ただ、世間話をするように、言葉を続ける。

「本来ならこの程度の仕事でわざわざ私が出向いたりはしないんだが、
 最近、式がひどく反抗的でね。
 人の命はおろか、人のカタチを手にかけることも拒むようになった。
 なんとかならないものかね、アレは」
不便で仕方が無い、と肩をすくめる橙子の声に、答える言葉はやはり、ない。

それでも、彼女は語りつづけた。

無意味だと、自身で言い放っておきながら、
それでもなお魔女は、少女の霊に向かい、語る。

それは言葉を聞かせるための行為ではなく、声を届かせるための行為であり。
それは意味を伝えるための行為ではなく、意識を引くための行為。

取りとめも無い言葉。
巫条のこと。両儀のこと。全くの世間話。あるいは酷く、下世話な話。
そして―――。

『―――あ―――』
消え入るような、少女の声。
それは、魔女が一人の男のことを口に使用としたとき時、初めて漏れた。

『―――あの、人―――は』
「黒桐か」
問い掛ける。答えはない。
だが。

『―――し、あわせ―――?―――』
「足を患い、目を抉られ、妹と彼女の間で板ばさみになって、
 最低の労働賃金で酷使される毎日だがね。まあ、奴は笑ってるよ」
空を見上げたまま呟かれた少女の問いに、
応じる橙色の魔術師の答えは、あいまいだった。


『―――し、あわせ―――?―――』
「幸せだな」
繰り返される問いに、魔女は、ほのかに憐憫の情が浮かべ、そして、答える。

「幸せだよ。黒桐も、両儀式もね。
 君の立ち入る余地など、既に微塵も無い」

「―――あ―――あ、ああ――――」
慟哭。歓喜。あるいは、ただ漏れ零れただけの、音なのかも知れない。

(……まあ、どちらでも同じ事か)
一人呟いて、橙子は眼鏡を外す。

彼女にとって、重要なのは巫条の霊のその感情ではなく、
巫条霧絵の残滓が、反応を示した。その一点のみにある。

「何が、お前をこの世に縛る。巫条霧絵。
 未練か。希望か……あるいは、思慕か」

その言葉に。初めて、少女は、魔女に振り向いて。
―――微笑んで、泣いて、否定した。

「ほう」
透き通るような、少女の笑顔。
あまりに哀しいその笑顔には、一条の傷痕もない。
その事実に、魔女は、思わず声を漏らした。

あの時、橙子がみた彼女の骸。貌の潰れた、顔。表情の剥ぎ取られた、顔。
あの死に方をしたのなら、その霊には、拭えぬ傷痕が刻まれていてしかるべきだった。
しかし、目の前の少女には、それが、ない。

つまり、それが意味することは。
「つまり―――あの時、君は『飛べた』のか?」

返事はない。返答はない。

ただ、再び、少女は空を見上げ―――手を伸ばした。
浮遊するのではなく、その彼方へ飛ぼうとするように。
しかし、飛べない。何かに縛られたかのように、彼女はただ、浮遊する。

目を細めれば、僅かに紅い糸のようなものが彼女の足を縛り、
そしてビルの外、はるか地表まで続いているのが、わかった。

「なるほどね。その直前、意識体は確かに『飛行』に成功した訳か。
 しかし、肉体は飛べず、地に墜ち―――その魂を呪縛した。
 故に君は、宙に飛び果てることもできず、地に落ちて朽ちることも叶わない、か」

結果、あの時と同じく、ただ少女の残骸は、ただ、宙を漂う。

「罪によって道を選ぶのは間違いだ―――君に、そう言ったことがあったな。
 選んだ道によって、罪を負うべきだ、とも」

つまり、その結果が、これか。
飛ぶことを選び―――そして、飛んだ彼女の背負った、罪。

飛行するために、命を捨てることを選び、そして、捨てた命に呪縛された。
それが、罪の報いと言うのなら、笑えない。

「魔術師の業によりその生を弄ばれ、
 魔術師の言によりその死を穢された、か」

ならば。

「なら、もう良いだろう。巫条。
 もはや、魂としての形も、意思も維持できていないのなら、
 罪を背負うことさえ、もう、意味は無い」

魔女は、冷たく告げた。
宣告する言葉、それはいつも冷たい。

しかし、それは厳然たる救いでもあった。

「終わりにしよう。巫条霧絵」

空の彼方を見上げる少女。
その百合のような肢体に。

「残り滓として彷徨うなら、こんな場所よりはまだましな末路を用意しよう。
 もはや『終わった』存在でも、人形の素くらいにはなれるだろうから」

『終焉』。
それを意味する文字を形取りながら、それを意味する炎が赤々と―――燃えた。




かくして、巫条霧絵の存在は、消える。

――――その名残さえ、魔術師の手に、奪われて。その形さえ、魔術師の手に、変えられて。


「だからって!」
巫条の魂、その残滓に、人形としての形を与えた。
その経緯を告げた橙子の話のあと、私は思わず叫んでいた。

「だからって、何も幹也の姿にする必要なんてない!」
声をあらげて、魔術師に詰め寄る。

「それに、幹也の前につれてくる必要なんて、どこにもないだろ!!」
そうだ。
もう、はっきりと、わかる。

私は幹也に、巫条霧絵の件を知られることを畏れ、怯えている。
巫条霧絵の思念体。それを『殺したこと』。そのことを知られることが怖いんじゃない。

例えその事実が、彼女の死の遠因だったとしても、
アイツは、それだけのことをした。

今でも同じ状況が再現されれば、私は躊躇い無く、
ナイフを巫条霧絵の胸に、突き刺し、『殺す』。

でも、幹也が、そのことを知ったら?

私が、何かを殺したことに。
そして、幹也のために、他の誰かが死ぬことになったという事実に。

また、あいつは、背負う必要の無い想いを自ら負う。
……そんなのは。もう、そんなのは、イヤだった。

そんなこと、私自身が傷つくより、ずっと、何倍も、何十倍も、イヤだった。
だから、わたしは、こんなにも―――怯えている。

「一つ目の台詞に対する答えは、ノー、だ。
 言っただろう? 私だってわざわざ好き好んで、
 男性体に対する素として女性体を選んだりはしない」
昂ぶる私を、どこか穏やかな眼差しで橙子は見つめ返し、答えた。

「巫条霧絵は死に、その魂は既に霧散しているといって良い。
 蘇生を使える魔法使いでも、もはやどうしようもない状態だろう、アレは。
 人形の核としても、本来は使えるレベルに既に無いんだ。
 ゆえに、アレを癒着させるには、よほど、彼女が『消えそこなっている原因』を絡めてやる必要がある。
 一つは、飛行。しかし、それは弱い。それでは肉体を求める理由にはなりえない。
 だから、わたしはもう一つの原因を利用した。彼女が、自分自身よりも求め、焦がれていたもの。
 つまり―――彼女の想い人。その形に癒着させることだ。ま、悪趣味なのは否定しようもないか」
橙子の淡々とした台詞が耳に障った。
もっともらしい説明なんて、聞きたくも無かったから。

「二つ目の台詞に対する答えは―――イエスでもあり、ノーでもあるね。
 理由付けは出来る。それが必然かと問われればわれながら首をかしげる部分もあるがね。
 でも、理由なんてどうでもよいのだろうな、君は」
呟いて、私の瞳を覗きこむトウコの瞳は、どこか寂しげに揺れた。

「式」
そして、刹那の沈黙のあと。

魔術師は、優しく、囁いた。


「式。巫条の一件で、君が負うべき罪など皆無だ。
 今、君の心を苛む要因が、黒桐に巫条に知られることを恐れる気持ちだと言うなら、
 この件はお終いだよ。明日には『彼』はいなくなり、二度と会う事はなくなるからね」

お終い。つまり、巫条は、その名残さえ消えて、居なくなるということ。


それなら、問題ない。
何も、問題ない。なにも。


そのはずなのに。
トウコの言葉が、痛かった。

幹也に知られることはない、と言ったこいつの言葉が信じられないから?

……そんなのは、違う。


「だけどね、式」
続けられる、言葉。
かすかに身を強張らせながらも、私はその続きを待った。


「哀れだって、思ってしまったのなら」
哀れ? 誰が、誰を哀れむというのか。

哀れみなんて、そんなのは私は、認めない。
でも。

「それが君の心に刺を残しているのなら」
刺。
刺さった、針。そんなもの、私の心には。

―――ありすぎて、区別なんて、つかない。

「―――協力してくれて、構わない」
「協、力?」
「ああ、協力だ。
 巫条霧絵の魂を、別の形に流転させ、止める。
 その手伝いを―――君に、して欲しい」


そうすることで刺は抜けるはずだから、と。


優しく語る橙子の声は。
まるで悪魔の誘惑のように、じわり、と私の心に染み入った。


次へ。