人形遊戯 「空の境界SS」 両儀“色”祭 投稿作品。

/1.

「そう言えば、確か」
時計の針が終業時刻を示そうとする頃。

「君は相手が男でも、問題ない性質だったな。黒桐」
いつものように唐突に、いつものように何の脈略もなく
所長である橙子さんはそんな言葉を僕、黒桐幹也に投げかけた。

「―――?」
言葉の意味、というか意図をはかりかねて、僕は一瞬だけ橙子さんに
視線を移して、その表情を伺う。

就業中とは思えないほどきれいに片づいた机の上、
橙子さんは、所在なげに、左手で頬杖をついていた。

欠伸をかみ殺し、いかにも退屈だ、といった表情で
僕の方を眺めているその態度からは、良くある悪意の表情も、
めったにない善意の表情も感じ取ることは出来なかった。

しかし、橙子さんの唐突な、しかも意味不明な言動は
大抵の場合、黒桐幹也にとっては不吉の前兆以外に他ならないわけで。

・・・うん、ここは、やはり。

不吉の回避策―――つまりは、無視―――を
採用して、当面の差し迫った仕事を片づけることに専念するべきだろう。

ということで、僕は視線を橙子さんから、
来客用ソファーの上に正座している式へと移して声をかける。
「式」

僕と同じく怪訝に眉をしかめて橙子さんを見やっていた彼女は
そのままの表情で、振り向いた。

視線で、「何だ」と問いかける彼女に、
その背後のキャビネットを指さして告げる。

「悪いけど後ろにあるファイルケースとってくれないかな」
「いいけど。どれだよ」
「あ、それ。その青い奴。遠野建設って書いてあれば正解」

「おーい、黒桐」
再び僕の名前を呼ぶ所長の声。
しかし、僕たちの意図は一致しているので、当然二人とも振り向くことさえしない。

「これか? ほら」
「ありがと」
ソファーから動くつもりはないらしい式は、正座したまま突き出したファイルを
礼を言って受け取る。

・・・うん、これだ。
しかし、昔の顧客ファイルもなんとか電子化したいなあ。時間無いんだけど……

「おい、黒桐」
三度、橙子さんの声。
ちょっと、口調の底に冷たいものを感じた気もするが、まだ気にしないでおく。

「鮮花」
今度は、目の前の机を占拠している妹の名前を呼んだ。

「なんでしょう、兄さん」
分厚い本のページを繰る手を止め顔を上げる鮮花。
一瞬、目に入った妖しげな文字の数々に軽い眩暈を覚えながらも、
僕は彼女の隣の机を指で示す。

「隣の机の引き出しからフロッピーディスクとってくれないかな」
「ここですか?」
「あ、その隣の引き出し。五枚入りのケースごと取ってくれると嬉しい」
「はい」
こちらはきちんと立って、僕にケースを渡してくれた。
ちらり、と鮮花の眼が式の方向に動いたのをみると、あるいは意識してのことなのかもしれない。

…なんだって、こう張り合おうとするのかな。

未だにその理由がさっぱりわからないのが、昨今の頭痛の種の一つだった。
ちなみに、頭痛と、ついでに言えば胃痛のもっとも大きな種は勿論。

「ふーん、無視か。無視するんだな、黒桐」
不吉極まりない声色で、また僕の名を呼ぶ橙子さんである……あらためて言うまでもないけれど。

「いつから君はそんなに心の冷たい人間になったんだろうね。
 まあ、確かにどんな心のあり方をしようと、それは個人の意志として尊重されるべきものではある。
 でもね、やっぱり、目上の人間の発言を無視するというのは、問題だとは思わないかね。
 ――ああ、寂しいな。いや、哀しいというべきか。
 これから、君の注意を引くためにひとつキツイ方法を行使するしかないとは――――」
「いじけながら、脅迫しないでください」
「お、気付いた」
根負けして振り向くと、橙子さんはわざとらしく喜んでみせる。
その態度にさらに不吉なものを感じつつ、僕は盛大な溜息を付いた。

「あのですね、この忙しいのに所長も仕事してくっださいよ」
「だって、私は作品を昨日納品したじゃないか。
 だから、忙しいのは君だけであって、私は今、暇なんだ。
 いや、暇だと言うには語弊があるが、差し迫った締め切りに追われてはいない」
余りと言えば、あまりの言葉にこめかみが引きつるのを感じながら、
ぼくは机に積んである分厚い書類の束の一つを取り上げ、橙子さんに向かって振ってみせる。

「ええ、そりゃあ、そうでしょうね。所長が、さんざん締め切りを遅らすから
 僕のすべき仕事が、ずるずると溜まっていっていたんですからね。こんなに」
「そう怒るな、黒桐。
 今まで君の仕事が延びていたということは今まで暇だったということじゃないか」
「締め切りのばしてもらうために、どれだけ奔走したと思ってるんですか!!」
「怒りっぽいのは、心が荒んでいる証拠だぞ。黒桐」


誰のせいですか、誰の!

ばん、と机を叩いて、そう叫ぼうとした瞬間、それを予測したように橙子さんは
「落ち着け」と僕に手を向けた。

「これも一応は仕事の話なんだ。
 別に、納期は差し迫ってはいないが―――大事なことなんだぞ。黒桐。
 それとも、所長が仕事の話をするのを無視したり、怒ったりするような理不尽な従業員なのかな、君は」
「・・・わかりました。もう無視したりしません」
『仕事』という言葉をだされたら、さすがに無視するわけにはいけない。
そう思って、溜息と共に、叫ぼうとした言葉を捨てた。

満足げに頷く橙子さん、そして…対照的に憮然とする式。
その視線がかなり痛いのだけれど、今は気にしないで置く。

「では、あらためて。
 君は相手が男でも、問題ない性質だったな。黒桐」
「一緒に、仕事をする相手、という意味ですか?
 だったら、確かに問題なんてないですけど」
「いや、そうじゃない。無論、性交渉の相手と言う意味なんだが」

……コノヒトハ。一体、なにが『無論』だとでも言うのだろうか。

・・・やはり、無視しつづけるべきだった。
その思いと一緒に吐き出した何度目かの溜息は、自分でも実感できるほど重かった。

「あのですね。僕は男性をそういう行為の対象としては、受け入れられません」
「では、織でも良いと言った事実はどう釈明するつもりだ」
また、そういう誤解を産むような表現を。
視界の端で鮮花の表情が引きつるのが見えた。
何気なく手にもった分厚い本の使い道が気になるが、こちらも今は気にしないことにしよう。

「なんですか、釈明って。やけに絡みますね、所長」
「絡まざるを得ない事情があってな」
激烈に嫌な予感が、群れを成して背筋を這いまわった。

その予感を補完するかのごとく、橙子さんの不吉な言動は続く。

「より解りやすく言うと、困る」
「こ、困るって―――な」
『何が』。あるいは「何故」。
そう続けようとした舌を、寸前で止める。

それは絶対に、聞いてはいけない質問であり。
それは絶対に、答えさせてはいけない質問であると本能が告げていたから。

―――しかし、まあ、尤も。
その質問を消したとしても、事態は改善されないという確信もあったけれど。

そして、僕の一瞬の逡巡のうちに。

「入りたまえ」
パチン、と、橙子さんは、まるで映画の悪役のように指を鳴らし、告げた。
その音と声に、事務所のドアがゆっくりと開いていく。

―――って、それはマズくないか?!
つまり、入ってくるのは「性交渉の相手として男性を必要とされる性癖をお持ちの方」と言うことになり。
しかも、さきほどの橙子さんの言葉から、『相手』として僕を指名される可能性が非常に高いのでは。

「しょ、所長?!」
「―――失礼します」

慌てて声をあげるが、解き既に遅し。
ぎぎい、と妙に重々しくあるいは、控えめにドアをあけ、姿を見せたのは。

「「「え?」」」」
見事に重なる僕と式と鮮花の、呟き。

そう、開いたドアの向こうに、立つのは一人の男性。

黒髪、黒シャツ、黒ズボンに、黒眼鏡。
隠すように伸ばした前髪から、確かに傷痕が覗いていた。

つまり、は。
そう、そこにいたのは、つまり。

「にいさん?」
「幹也……?」

そう。式と鮮花が呆然と呟いた通り。

「……ぼ、く?」
僕、黒桐幹也と寸分違わない姿の・・・僕、だった。

「あの。はじめまして、みなさん。よろしくお願いいたします。黒桐、さん」
あつまる視線に、頬をそめた「彼」は、礼儀正しく一礼したが、
あまりのことに、僕と式と鮮花が同時に声をあげるまでには、しばしの時間が必要だった。

次へ。