魔術師たちの一夜。 「空の境界SS」

1.

雲一つ無く、澄み渡った午後の空。
秋の気配に彩られた風は、冷たく身に染みるがそれでも普段より過ごしやすい。

そんな気持ちの良い午後であっても、その通りには賑わいがなく、
一軒のサンドイッチを売る屋台が、ひどく寂しげに佇んでいた。

売り子である少女は退屈さのためか、ぼんやりと虚ろな瞳で、
手元の新聞紙を眺めていた。

声をかけられるまで貴重な来客に、まったく気が付かなかったのはそのためだろう。

「一ついただけますか?」
「え?・・・あ、はい。毎度ありがとうございます」
弾かれたように・・・とまではいかないが、それなりに慌てたようすで少女は
新聞紙を屋台の後ろに放り投げながら、声の主に向き直った。

透き通るような響きのその声の主は女性だった。

白いシャツ、青いズボンにスニーカー。加えて右肩にデイバック。
旅行中の学生のような活動的な姿であったが、ひどく落ち着いた―――いや、神秘的な、
といいて良い程の雰囲気と美しさを見るものに感じさせる。

穏やかな微笑みを浮かべる彼女の顔立ちは、女性でさえ一瞬見惚れるのではないか、と思えるほど
整ってはいたが、少女にはなにより、腰まで伸びた黒髪の美しさが、印象的だった。

「―――あの? どうかしましたか」
「え? あ、す、済みません―――」
女性の困ったような声が、少女の意識を引き戻す。どうやら本当に見惚れてしまっていたらしい。

今度こそ大慌てで、注文を聞き、サンドイッチを三つ、紙袋に放り込む。
代金の計算に戸惑ったり、紙幣と硬貨をばらばらと落としたり。

客にとっては、苛苛すること甚だしいサンドイッチ屋では会ったが、黒髪の女性は穏やかな笑みを
その顔に貼り付けたまま、少女を眺めやっていた。

「お、お待たせしました」
できるだけ、丁寧にサンドイッチの入った紙袋を渡しながら―――少女は再び、客の顔を覗き込む。
これには、さすがに女性も僅かに眉根を寄せたが、それでも怒り出すことはなかった。

「あの?」
「――――お客さん、中国の方ですか?」
「惜しいです、もう少し東。日本人なんです」
右手で紙袋を受け取り、左手で代金を渡しながら、女性はそう答えて微笑んだ。

にほんじん、と微かに呟く少女。一瞬、虚空に視線を這わせ―――
何かを思いついたかのように再び視線を女性に戻す。

「・・・こちらには観光で?」
「いえ、留学に」
「ははあ、頭がよろしいんですねえ」
大仰に驚く少女に、どうも、と答える日本女性の表情に初めて苦笑めいたものが揺らいで消えた。

その苦笑に当然のように気付かない少女は、そうなんですか、すごいんですねえ、と頷く。

「でもお客さん、今、一人で出歩くのは危ないですよ」
お釣りを手渡しながら、あまり緊迫感のない声で少女は忠告めいたことを言い出した。

「この通りはあまり治安が良くないんです。
 大きな声じゃいえませんけど―――人攫いがでるとかも聞きますし」

人攫い。

ひどく時代錯誤な響きに、女性は再び苦笑を浮かべかけた。
その人攫いがでるような場所で、一人屋台を開くこの少女とはつまりどういった人物だろうか。

薄い微笑を浮かべたまま、少女を見返す女性の瞳に、酷く冷たい光が宿る。
何かを観察する科学者の瞳に宿る、知的ではあるが、それゆえに温かみのない光。


その女性の僅かな変化に、しかし少女は全く気付いた様子もなく言葉を紡ぎつづけていた。

曰く、一人歩きの女性が狙われる。
曰く、土地勘のない留学生が狙われる。
曰く―――。

つまりは、あなたはが狙われやすんですよ―――ということをひどく遠回りに少女は語りたいようだった。

「あの、よろしかったら、お送りしましょうか―――」
「ありがとう。でも、大丈夫。ちゃんと、知り合いがいますから」
にこりと穏やかだが、決して反論を許さない何かを口調にこめて女性は笑った。
そして、少女が口を開くより前に、さっと身を翻し―――裏路地の奥へと歩を進める。

「あ、あの―――そう、ですか。じゃあ、また・・・お気をつけて」
当惑と落胆。そんなものが入り混じったような少女の声を背中にうけて、
はっきりと女性は苦笑を浮かべた。

「なるほど、あれでは遠からず破綻する。
 アルバの創る人形より酷いというのなら―――まあ、協会が動くのも詮無き事、か」
紙袋からサンドイッチを一つ取り出しながら、魔術師―――蒼崎橙子はそう、呟いた。

2.

年季だけが売り物かと思える安アパートの一室。
昼間というのにカーテンを締め切った薄暗いその部屋には、二人の男の姿があった。

一人は、真紅のコートを羽織った金髪碧眼の青年。
窓の傍の机に腰をかけ、皮肉な笑みを口元に湛えながらカーテン越しに外を眺めている。

もう一人は、漆黒のコートを羽織った男。
ただ固いだけのベットに腰をおろし、苦渋に満ちた表情で虚空を凝視していた。

赤いコートの男の名はコルネリウス=アルバ。
黒いコートの男の名は荒耶宗蓮。

共にヨーロッパ最大の魔術協会において、力を認められた魔術師である。

魔術師―――その言葉を聞けば、多くの人は笑うだろう。あるいは眉を潜めるかもしれない。
しかし、彼らと対峙してなお、魔術師という言葉を笑い飛ばせる人間は、その実、多くはない。

それほどまでに彼らが纏う雰囲気は、異質であり、歪であった。

その異質な魔術師の中においてさえ、異端視される荒耶宗蓮。
その魔術師が虚空を凝視したまま、いきなり言葉を吐き出した。

「・・・アオザキは無事に検分を済ませたようだ。直に結論が出るな」
「結論なんて最初から決まってるじゃないか。乗り込んで皆殺し。
 考えるべきは殺害手段か、あとの偽装工作くらいのものだ」
荒耶の言葉に、アルバは髪の毛をかきあげながら、大げさに嘆いて見せた。

「検分なんて時間の無駄だ。そうは思わないか? アラヤ。
 人形だろうが、人間だろうが、関わったヒトガタであれば消してしまえばいい」

「消すべき対象範囲を判断するための検分でもある。無駄、というわけでもなかろう」
「そういう回りくどいやり方は、魔術師の悪癖だと思うのだがね」
嘲笑混じりの言葉を吐き出して、アルバは机から立ち上がった。
ぎしぎし、と悲鳴を上げる床を踏みならしながら、荒耶の側を通り過ぎ、
ドアの前で歩をとめる。

その整った顔に、一段と皮肉な笑みを浮かべて、彼はドアの向こう側へと声をかけた。
「それにしても、よくもまあ、あれだけ変われるものだね。感心するよ。
 ああいうのを、日本の言葉で「ネコナデゴエ」とか言うんだったか? アオザキ」
その言葉と同時に、ドアノブが軋んだ音を立ててまわり、ゆっくりとドアが押し開かれる。
開いたドアの向こうにいたのは、黒い髪の日本人。魔術師、蒼崎橙子であった。

「盗み聞きか、アルバ。あまり良い趣味とはいえないぞ」
つまらなさそうな声でそう言うと、橙子は冷たい一瞥をアルバに投げ、その傍らを通り過ぎた。

「盗み聞きとはひどいじゃないか。
 万が一のことがないように、という親切心の発露と考えてくれないのか?」
「発露するほどあまっているのなら、他の弟子にでも分けてやってくれ」
淡々とした口調のままの橙子に、大げさに肩をすくめて溜息をつくアルバ。

赤い魔術師のその態度を黙殺して、橙子は荒耶の側を通り過ぎ
先刻までアルバが腰掛けていた机に軽く手をついてから向き直る。

腰まで伸びた黒髪が、その動きに合わせて流れるように空を舞う。
まるで別の生き物のようなその動きは、ある種、幻想的ですらあった。

暗がりの中、冷たい人形のような表情が神秘的な妖しさを帯びる。
その美しさにほんの一瞬、アルバでさえ言葉を失う程であった。

そのアルバの代わりに、という訳でもないだろうが、荒耶がおもむろに口を開く。

「結論はでたか、蒼崎」
昏すぎる響きの声に、橙色の魔術師は心底つまらなさそうに首を縦に振った。

「外をうろついている人形は3,4体だが・・・上等な人形とは言えないな。
 あれでは、遠くないうちにボロが出る。
 しかも、人形を使って、人形を増やし続けているようだ。
 さすがに放置はして置けまい」

「やれやれ、仮にもこのアルバの兄弟子ともあろう魔術師がそんな人形を世に放つとはね。
 あげく、協会に嗅ぎ付けられるとはーーー、お粗末にも程がある」
嘆かわしい、といって空を仰ぐアルバの表情は言葉とは裏腹に、愉悦に歪む。

「その人形、臓腑は残っていたか。蒼崎」
「そのままだ。防腐処理には、複合ルーンを刻んでいるな。
 死体として、そのまま廃棄できる程度の仕掛けは施してあるようだな」

「ならば、話は単純だな。死体さえ残るのであれば、不幸な出来事として処理できよう」
「人に死に様についての知識なら、君に比肩するものはいないからね。
 せいぜい、哀れなヒトガタ達の最後を演出してやりたまえよ」
ぱん、と両手を打ち合わせてアルバが、ばさり、とコートの裾を翻す。

「さあ、陰気な部屋で、陰気な話をするのは話はここまでにしよう。
 さっさと済ませてしまおうじゃないか」、
その芝居がかった、青年に。

「行動は、夜からだ」
「昨日の、話を聞いていなかったのか、お前は」
二人の魔術師の冷たい声が、投げられた。

3.

人形師ギオム。
かつて『万能の秀才』と呼ばれたほど、多岐にわたる分野でその才能を発揮した魔術師である。

コルネリウス=アルバにとっては、同門の魔術師であり、
ほんの一時期であるが、同じ工房で研究を積んだこともある。

その魔術師に対する粛清が、つい先日、協会上層部によって決定された。

おそらくは研究のためであろうが、次々と人間を誘拐していたのだ。
それだけであるのならば、粛清対象にはならないが、度重なる誘拐に、当局が事件性を感じ始めていた。

加えて、その事実に基づく、協会の改善命令を黙殺したため、協会は見せしめの意味も含めて
魔術師ギオムの粛清、およびその痕跡の抹殺を決定した。


そして、ギオムの抹殺命令を受けたのが次の三人である。

コルネリウス=アルバ。
荒耶宗蓮。
そして、蒼崎橙子。

後に、この人選を決定した魔術師の一人はこう語った。

「今にして思えば、なぜこの三人をまとめて指名したか。
 我ながら、軽率の誹りをまぬがれまいな」

――――軽く胃を抑えながら、彼はそう語った。


4.

分厚い暗雲が夜空を覆い、星々の輝きは地上に届かない。
街灯の明かりと、家々の窓から漏れ光る灯りが頼りなく闇夜を照らす。

小さな一軒家を道路越しに照らす街灯の下。
アルバと蒼崎がそれぞれの表情で、路を挟んだその家を眺めていた。

蒼崎は、メガネを外し、全身をすっぽりと黒いコートで被っていた。
他人が見れば、まるで彼岸と此岸の境界に立つ幽霊のようにも見えたかもしれない。
それほどまでに、存在感というものを消して彼女は闇に溶け込んでいた。

対照的に、コルネリウス=アルバは真紅のコートを羽織り、
静謐な夜の中でさえ、あつかましいまでの存在感を主張していた。

襲撃者としてはあまりにも一目を過ぎる赤い魔術師に、蒼崎橙子が陰鬱な視線を向けた。
「多少なりとも目立たない格好をしようとは思わなかったのか? お前は」
「失礼だな。十分に地味だろう? 闇の中で映える炎程度の地味さじゃないか」

「闇夜で映えるのが地味ではない、といっているんだ」
「そう眉をしかめないでくれたまえ、アオザキ。
 憂いに満ちた表情もまた、魅力的ではあるが、やはり女性には笑顔が似合うとは思わないか?」

「お前がどんな美意識を持とうがかってだがね、アルバ。
 今はそれを議論する時でなく、ここはそれを議論する場所ではない」
「つれないね、君は。魔術師といえど、コミュニケーションは大事だと思うのだがね、私は」
場違いなほどに陽気な笑みを浮かべるアルバに、橙子が思わず嘆息しかけた、その時。

――――周囲が異界に包まれた。

虫の無く声。草花のざわめき。風の渡る音。

一切の音が、圧倒的な静謐に飲み込まれ、消える。
いや、あらゆる生物の気配が、活動を停止した。
そんな錯覚さえ、抱かせる―――異界。

「・・・アラヤの結界か」
「なるほど、協会公認の仕事だとこんな役得もあるわけか。
 普段ならこんな分かり易い結界なんて、とても使う気にならない」

(協会が目くじらを立てるような結界をお前が張れるとは思えないがな)
と口には出さずに呟いて、蒼崎橙子は背後に生じた一段と濃い闇に向き直った。

闇の中に顕れたのは、銅像と見まがうような、黒い影。
言わずと知れた荒耶宗蓮、その人である。

「やあ、アラヤ。終わったようだね」
「ああ、この一体に渡って結界を敷いた。もはや、奴らに逃れる術はない」

淡々と語る魔術師に、アルバは満足そうにうなずくと、視線を橙子に移す。
その視線に軽く頷くと、彼女は懐から一枚の紙切れを取り出した。

そこに記されているのは、太い棒のような線が組み合わされた図形の羅列。
ルーン、と呼ばれる魔術文字である。

左手にルーンの護符を持ち変えると、橙子は右手の人差し指を僅かに噛み切った。
白い指先に血が滲む。

その血をインク代わりに、彼女は護符に記されたルーンを一つ一つなぞっていった。
彼女の血によって、描かれた赤いルーンが、ほのかな紅い光を放つ。

荒耶とアルバは、橙子のその行為には目を向けずにただ目の前の一軒屋の変化を注視していた。

やがて。

キイ、と。

木の軋む音と共に、四角い光の輪郭が石造りの壁に穿たれ、ゆっくりと、ドアが開かれていく。

「拍子抜けするほど、あっさりだな。
 あれは例の少女だろう? アオザキ」
アルバの言葉に橙子は無言で頷き返した。
その少女は、今朝アオザキにサンドイッチを売っていた売り子だった。

「確かに魔術に抗した様子は無いよ。つまりは罠、なんだろう」
「罠であろうと、無かろうとなすべきことは代わるまい。
 障害があるのならば、排除すれば済むだけのことだ」
「そうそう、良い事を言うじゃないか、アラヤ。
 朝にも言ったが、どうせやることは決まってるんだしね」
揺るがない意志満ちた荒耶の言葉に、
アルバはぱちんと、指を打ち鳴らし、告げる。

「さあ、行こうじゃないか。我が親愛なる魔術師達よ。
 ハローウィンには少し早いが――――パーティの始まり、だ」

目を細める赤色の魔術師に、狂喜を孕んだ笑みが浮かんだ

5.

「ご苦労様」
アオザキがそういって少女の頬をなでると、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
文字通り、人形であるわけではあるが。

倒れ臥す少女の手には、固く一枚の硬貨が握られている。
橙子がサンドイッチの代金として渡した硬貨の一枚であり、
表面にはごく小さく、複数のルーン文字が刻まれていた。

「若い身空で気の毒なことだ。まあ、キミの敵は私がとろう。
 心置きなくジョーブツしてくれたまえ」
誠意の無い言葉を、少女の人形に投げかけるとアルバは、玄関を見渡した。
その背後から、荒耶が腕を突き出し奥の扉を指差す。

「そちらにリビングだ―――3体ほど、稼動しているな」
「3人? 数が合わないじゃないか」
「一箇所に、ぞろぞろと固まっている道理もあるまい」
「なるほど」
そっけなく頷くと、アルバは無造作に進み出てリビングの扉を音を立てて開け放った。

あまり広くは無いリビング。
見るからに安物のソファーに、テーブル、そして暖炉。

そして、荒耶の言葉どおりに3体のヒトガタ達が、そこにわだかまる。

「あの、どちらさまでしょうか?」
金髪の中年女性が、人のよさそうな、だが何処か虚ろな笑みを荒耶に向けた。

彼女の背後には、若い男女が二人、暖炉の椅子に腰掛けて暖を取っている―――様に見える。
赤い炎に照らされた彼らの顔つきは、西洋人ではなかった。

アルバの後ろから覗く橙子には、中国人に見えたが、あるいは別の国の犠牲者かもしれない。

「あの、どちらさまでしょうか?」
全く同じ口調で、同じ言葉を繰り返す女性。その手にはいつのまにか、大ぶりの包丁が握られていた。
ナタと形容した方がふさわしい、中華包丁である。

「随分と豪快な包丁だ。よく切れそうじゃないか」
「後ろの男、中華料理店の店員だ。そこから持ち出したのだろう」
そういって荒耶は、アルバと共に完全に部屋の中に踏み入った。
その荒耶を横目で捉えて、アルバが口の端を、危険な角度に吊り上げる。

「それで、こいつらは壊してかまわないのだろうな。アラヤ」
「好きにしろ。頭以外は形を残す必要もない」

その荒耶の言葉に反応したのか、がたん、と椅子が倒れる音と共に、二人の男女も立ち上がった。
先の少女に較べると、動きがぎこちなく感情も薄い。

しかし、明確な敵意だけは表現することには成功しているようだった。

「では、我々が荒事をこなしている間に、入り口を開けておいてくれたまえ。アオザキ」
「引き受けよう」

「あの、勝手にお入りになられては、困ります」
包丁を大きく振りかぶりながら、人形はアルバとの間合いを詰める。
緩慢ではあるが、滑らかなその動きと、僅かながら殺意を感じさせる人形の瞳に、
赤い人形遣いの端正な顔が、愉悦に歪む。

「ほう、昏い眼だ。少しだけ壊すには惜しくなったじゃないか」
凶器が尋常ではない速度で振り下ろされるのと同時、中年女性の懐に、無造作にアルバは踏み込んだ。
流れるような動きで凶刃をかわし、女性の首に軽く手をあて―――

片手でその首をもぎ取る。雑草を引く抜くように、容易く。

首を失った胴体から、ごぼり、と溢れる赤い液体は、明らかにそれが人間でないことを証明していた。

「絶命の表情というには、悲壮さにかけるねぇ。
 我が兄弟子殿もまだまだ精進がたりないかな」
アルバはやや興をそがれた様子でもぎ取った頭部を批評してから、床に投げ捨てた。
同時に、首から上を失った女性の胴体が崩れ落ちる。

その様子に、不可解だ、とアルバは眉をひそめる。
「頭部をもぎ取られた程度で機能を停止するのか・・・?
 確かに、不出来だな。一体何のために人形にしたのかわからないじゃないか」

『人形には、与えられた役割と、それにふさわしい機能があろう。
 パンを焼き、野菜を切る人形に、化け物じみた機能はいらんだろう。コルネリウス』
もがれた首の唇が動き、無機質な声で答えた。

アルバと荒耶の視線を受けて、血に塗れた眼球が、ぬらりと光る。

『他人の工房に無断で踏み込み、人形を破壊し、挙句、評論家を気取るか。
 無礼にも程があろう、コルネリウス』

自らの足元で言葉を紡ぐもがれた首の人形。
アルバは大げさに、しかし礼儀正しく、血溜りに転がった首に一礼した。

「ご壮健で何よりです、わが兄弟子、ギオム。
 このコルネリウス=アルバ、再び貴兄のお声を拝聴でき―――感涙に耐えません」
空々しいアルバの挨拶を、声の主は完全に黙殺した。
眼球だけが動き、その視線をアルバの横で佇む荒耶、そして丹念に床を調べている橙子へと移す。

『荒耶宗蓮に―――アオザキの小娘か。魔術協会が今更何用か』

「人形師ギオムに見知っていただけていたとは、恐縮だ」
薄く笑いながら、橙子は銀のナイフで、床の一部をこそぎとった。

その動作に呼応して、ゴウン。鈍い音を立てて、石の床が開く。
そして、床に開かれたのは、地下へと続く階段であった。

「ベルズの印の使い方は、お見事ですが、印自体を隠さないと意味がない。
 画竜点睛を欠く、とはこういう事をいうのですよ」

『―――自ら望んで魔術師の異界へと踏み込むつもりか。愚か者め』
挑発する橙子の嘲笑に、しかし、人形から漏れる魔術師の声は、揺るがない。

『自ら死地を求めるのなら、それもよかろう。
 だが―――コルネリウス』

無機質な人形の声に、剣呑な何かが篭る。
同時に、がたん、と音が鳴り、部屋の周囲に無数の気配が生まれ出る。

『コルネリウス。貴様には特別なもてなしをしよう。
 不出来と称した我が人形の業―――存分に味わえ』

名指しを受けたアルバは、その青い双眸に、不敵な笑いを浮かべ
二人の魔術師に振り向いた。

「と、いうことで、私をご指名のようだ。アオザキ、アラヤ。ここは私が引き受けよう。
 君たちは先に行ってくれたまえ」

自身と余裕。それ以上に、危険な興奮に包まれた紅い魔術師を、
それぞれの表情で見つめる橙子と荒耶。

「・・・よかろう」
「では、よろしく」

ほぼ同時に、頷くと、彼らはもはや、人形達には目もくれず、穿たれた
地下の闇の中へと足早に消えた。

アオザキの姿が床下に消えたのを確認してから、アルバは喜色満面の笑顔を浮かべて
人形達に向き直った。

アルバたち自身が入ってきたリビングのドアから、一体、また一体と人形たちが姿を現し、アルバに迫る。

ざっと確認しただけで、人形は10体。
白人、黒人、黄色人種。金髪、赤毛、黒髪、栗毛―――。

「なるほど、協会の情報どおり随分と、国際色豊かだ。
 標本でも創るつもりだったか、ギオム」
確かにこれだけ、様々な人種を手にかけていけば、いずれどこかで破綻する。

大型のアーミーナイフなど、明らかに戦闘用の武具を手にした人形達を前にして、
アルバの脳裏にそんな思考が展開されていた。

その魔術師に、先の中国人の青年が先陣を切って、襲い掛かった。
彼の手には刃物は握られていなかったが、その拳にルーンの文字が刻まれていることを
アルバは見て取った。

(ほう)
と、彼が内心で呟く間に、人形は明らかに常軌を逸した速度と動きで拳を魔術師の
顎に叩き込む―――筈だった。

しかし、対する魔術師も、常人では在り得ない。
加えて、殊に人形を破壊する技にかけて間違いなくアルバは協会においても卓越した能力を持つ。
一目見るだけで、人形のもっとも脆い部分を見出し、最低限の衝撃をその部位に加える―――。

その程度のことは、彼にとって造作もないことであった。
結果、戦神の祝福を刻まれたその拳は、赤い人形師によって、無造作に引きちぎられた。

ごぼり、と再び、鮮血に似たなにかが床と、魔術師の紅衣を濡らす。

べちゃり。

出来たばかりの血溜りに足を踏み入れる、アグリッパの末裔は。

あまりに危険な光をその瞳に宿し、嗤う。

「さあ、血と炎の宴の幕開けといこうか。まずは、血の祭典。得とご覧頂こう」

人形に対し、そして、殺すべき魔術師に対して高らかに宣言し―――赤い闇が、爆ぜた。


6.

暗闇の中の階段を下りながら、橙子はわずかに苦笑めいたものを浮かべていた。

「何を笑う、アオザキ」
不謹慎さを咎める口調ではなく、純粋な疑問の意をこめて荒耶が橙子に尋ねる。

「いや、なに。幼い頃にみた日本のアニメを思い出したのさ」
「アニメ―――お前が、か?」

「そんなに意外そうな声を出すな、私もごく普通の女の子だったんだから。
 ―――なんだ、アラヤ、その顔は?」
「・・・私はいつもこういう顔だ」
荒耶宗蓮の表情は確かに動くことはない。
しかし、その声は明らかに普段とは異なる感情が浮かんでいた。

「それよりも、そのアニメが今なんの関係がある」
橙子がその態度を詰問するより速く、話題を変える荒耶宗蓮。
その黒い魔術師に、釈然としない視線を向けて、橙子は軽く肩を竦めた。

「やけに陳腐な演出だと思っただけさ」
演出、という言葉に荒耶宗蓮の眉間の皺が深くなる。

「床に隠された秘密の入り口に、その発見と同時に現れる障害。
 黒幕の声だけの登場。そして、仲間を先に進めるために一人が残る
 ・・・その辺りが昔見たアニメとダブったのさ」

「単なる偶然ではないのか」
「偶然だろうね。ギオムの考えていることは、単純だ。
 我々を誘い込んで分断したいのだろう。
 アルバと面識があるのなら―――まあ、あいつを挑発するのは簡単だからな」

「では、我々を分断するために何か手を打ってくるか」
「魔術師を二人まとめて一度に始末するよりは、
 一人ずつ、二回に分けて始末した方が効率的だろうな」
そうは答えたものの橙子とて、完全にこの工房の主の思惑が完全につかめているわけではなかった。

自分が、相手の立場であればどうするか。
そういった思考実験はこの場合、あまり役に立たない可能性がある。

理由は単純である。
魔術師にとってさえ、理解しがたい魔術師というのはあまた存在するのだ。

橙子にしてみれば、協会の魔術師を3人も自らの工房に入れること自体、
既に理解しがたい。

「――――分岐、か」
ほとんどの魔術師にとってさえ、理解しがたい価値観を持つ男の呟きが
橙子の思考を中断させた。

暗闇を睥睨する彼の視線の先には、確かにY字型の分岐点が存在していた。
その露骨さに、やはり橙子は苦笑を禁じえなかった。

「分かれ道とは、シンプルな方法だな。
 おそらく三人できていたら三つに別れていたんだろうが」

「こちらを分断する、という目的に対しては効果的な手段ではあるな。
 ・・・アオザキ。お前はどちらを選ぶ」

おそらくは、どちらを選んでも大した違いはないだろう。そう橙子は考えた。
通路を迷路のように組替えられるというのなら、主が招待したい方が、然るべき場所に誘われるだけのことだ。
問題は、どちらが招かれるか、という点だが――――。

(それこそ、考えても仕方ない、か)

「では、私は右、だ」
「よかろう」
そういうと、荒耶はあっさりと左側の通路に姿を消した。

がこん!

と音と共に石壁が通路を遮断する。

あまりに予想通りの仕掛けに、橙子の頬がゆるむ。
「安手のアニメか、映画の見すぎじゃないのか。人形師」

苦笑交じりに呟きながら、橙子は自らが工房の主に招かれるであろうことに、
確信に近い思いを抱きて、残された通路に歩を進めた。

―――なにしろ。

「ま、理解しがたい魔術師といえど、
 むさ苦しい男より、若い女性を招くを優先して招く程度の常識はあるだろうし、ね」
呟く橙子の脳裏には、苦渋に満ちた男の表情が浮かんでいた。

一方。

「ふむ。招かれたのはアオザキか」
取り立てて感慨も無く、呟く荒耶宗蓮は、ぎしぎしと軋みながら動く甲冑たちに囲まれていた。

闇の中で青く光る剣に、槍に、斧。
不ぞろいの武具を手にして、荒耶に迫る甲冑の数は10を越える。

「なるほど、確かにこれも人形師の業ではある」
妙に納得した様子で頷くと、彼もアルバと同じく人形たちの方に無造作に歩き出した。

青い光が、幾筋もの弧を描いて、黒い魔術師の体に突き刺さる。

―――だが。

「蒙昧―――と、人形相手に語っても詮無き事だが」
人の頭ほどもありそうな、剣や斧の一撃を平然と受け止めて、荒耶は昏い瞳を人形に向けた。

「起源を自覚した時点で、わたしは『静止』している。
 その程度のルーンで止まっている命を断ち切れはせん」
その言葉は、人形遣いに向けられたものか、あるいは命のない哀れな人形達にむけられたものか。

タン、と軽い音を立てて荒耶は目の前の人形に向けて踏み込み―――
そのまま素手で、甲冑を殴り飛ばした。

1トンは超えようかという巨大な騎士甲冑が、ただの拳の一撃でひしゃげ、ひび割れ、弾け飛ぶ。

盛大な騒音を立てて、部品をばら撒きながら粉砕された人形を一瞥すると、
荒耶はその左拳を、しげしげと注視した。

「ふむ。仏舎利を埋め込んだ、成果を検分するには丁度良い、か」
呟く荒耶に、再度、青い残光をのこして、甲冑たちの斬撃が空を凪ぐ。

それを合図に。

黒い魔術師による破壊劇の幕が―――開いた。

7.

魔術師の居室は橙子の予想をこえて広い―――いや、広大でさえあった。
研究室というより、図書館と形容した方が近い。

見渡す限りの書物に囲まれた中央、ドアから10mは離れた場所。

司書めいた風貌の魔術師が一人、積み上げた書物の上に腰掛けていた。
見た目の年齢は40前後。短く刈り込まれた銀髪に、同じ色の口髭を蓄えている。

この工房の主、魔術師ギオム。
今回の一件で、橙子たちが始末すべき対象である。

「ようこそ我が工房へ、招かれざる客人よ」
殺意を低く押し殺したその声に、橙子は冷笑交じりに一礼してみせた。

「お目にかかれて光栄だ、人形師ギオム。
 いろんな芸をみせて頂いたよ。さすがは『万能の秀才』と呼ばれる魔術師だ」
「芸、かね。では多少は楽しんで頂けたという事かな。アオザキの娘よ」

「とても及第点はやれないな。
 田舎の遊園地でも、もう少し気の利いたアトラクションがありそうなものだ」
「それは手厳しいな。だが、お前はアトラクションを体験していまい?
 せめて、これを体験してから評価して頂こうか」
溜息を吐き出すようなギオムの言葉。

それに呼応するように、中空に、光る文字が出現する。
膨大なまでの書物の山から、無数の文字が漂い出てきたのだ。

(―――ルーン? いや――――)
それだけでは、なかった。

ヘブライ文字、エノク文字、梵字にヒエログリフ。マヤにアステカの文字も垣間見えた。

古今東西のいわゆる魔術文字と呼ばれるものが、淡い光を放ちながら暗い図書室を彷徨う。
その文字の量と種類に、思わず橙子は感嘆の溜息を漏らした。

「見事な量だ。一体、どうやってこれだけの文字を用意した?」
ルーンだけでも、一度にこれだけの魔術文字を秘蔵している魔術師は珍しい。
加えて異なる系統の魔術文字を同時に行使する技術を保有している魔術師などそれこそ希少だろう。

素直に賞賛の念をこめた橙子に対して、答えるギオムの声に微かな喜色が浮かぶ。
「起源、くらいは知っているだろうな」
「ああ、幸か不幸か、起源を見る魔術師、なんてものが知り合いにいるのでね」

「荒耶宗蓮、か。確かに彼は魂の起源を遡ることにかけては他の追随を許すまい。
 しかし、アオザキよ。そこから、情報を引き出す業を私は持っているのだよ」
「・・・なるほど、東西の人間を集めていたのはこのためか。
 つまりは、あの人形達は、絞り粕ということだな」
あっさりと事態を飲み込んだ橙子に、ギオムは満足げに頷いた。

「そういうことだ。本来なら魔術師から文字起源を搾取したかったのが、
 それは必ずしも効率的ではない」
なるほど、と頷いてから、しかし、橙子は訝しげに空を漂う文字たちに視線を巡らせる。

「しかし、無差別だな。
 私を排除するだけなら、ルーンだけでも事足りる。わざわざマヤの絵文字まで持ち出す必要もない」

「協会からの刺客相手に、手加減をしている余裕はあるまい。
 それに、長く協会を離れていると、たまには、研究の成果を披露したくもなるだよ。
 たとえ相手が無礼きわまる侵入者だとしてもな」

「そんなだから、協会から排除命令を食らう羽目になるんだ、ギオム」
「ご忠告、痛み入る。以後、心にとめておくことにしよう」

苦笑を僅かに閃かせて、ギオムは右手を高々と掲げた―――銃殺刑を執行する直前の、指揮官のように。

「では、さようならだ。風使いの血族」
刑の執行を継げる言葉に、橙子は改めて自らを取り囲む魔術文字の群れを見渡す。

浮遊する文字結界。その数はおそらく100を下らない。
一つ一つの文字がどのような意味と威力を持つのかをもはや判別している暇は、ない。

自らに対する死刑執行が行われる直前、橙子は首から下げた橙色のペンダントの蓋を開けた。

橙子のその動作を視界に捉えて、銀髪の魔術師に顔が優越感に歪む。
ここは彼の工房である。その根本において絶対的な力量さがない限り、彼女の敗北は必然。

絶対の勝利を確信して、人形師は腕を振り下ろした。

「刻め」
「護れ」
重なる二人の魔術師の声。

光を放つ文字が、槍となって橙子を目掛け、降り注ぐ。
同時にペンダントから飛び出した漆黒の影が、風となって橙子の周囲を巡った。

見るものによっては、薄い黒のカーテンに橙子が覆われたかのように見えるかもしれない。
更には、そのカーテンが無数の光の槍に貫かれているように写るだろう。

しかし。事実は、そうではない。

「ほう」
ギオムの口から、僅かに驚愕の声が漏れた。
橙子の作り出した影のカーテンは次々と、雨のように降り注ぐ光を飲み込み、消失させていった。
貫かれているかのように写るのは、前後左右、あらゆる角度から魔術文字が打ち込まれている為であろう。

「―――止まれ」
低い呟きを合図にして、文字の嵐は、瞬時にその動きを止める。
ほぼ同時に橙子も黒い影を再びペンダントに仕舞う、ギオムと正面から視線をぶつけ合った。

圧倒的な攻勢を、完全に防ぎきった橙子に、防ぎきられたギオム。

しかし。
「珍しいものを使う。影絵の魔物、か」
嘲笑と賞賛の入り混じる、ギオムの声。
その声が紡ぐ言葉は、橙子の魔術を言い当てた。

(―――見抜かれたか)

だが、その動揺を微塵も出さずに、橙子は平然と頷いた。
「まだ試作品だがね―――まだ破壊力に難があるようだ」

「見事な出来だ。さすがはその若さで、工房を与えられる魔術師よ。
 しかし、チェックメイトだな」」
賞賛するギオムの声は、絶対の自信に満ちて揺るがない。

そう、アオザキの魔物は、襲いくる魔術文字をことごとく撃退したが、
空を漂う光は、一向にその数を減らしてはいない。

・・・キリが、ない。

そんな思いが、かすかに橙子の脳裏をかすめる。

だが―――。

ギオムが一瞬の攻防の内に、橙子の魔術を見切ったように、
橙子もギオムの魔術の種を見抜いていた。

魔術文字は本来、対象に刻み付けることによって効果を発揮する。
おそらく、あの光の文字を被弾すれば、その文字が刻まれるのだろう。

しかし、本質的に魔術文字はこのような雑な扱い方をしない。

最小限の文字を使用して、最大限の効果を導き出す。それが、大前提だ。

エーテル体に投射されている魔術文字が、完成されているものであるのならば、
エーテル体に投射された時点で、その効果を発揮できるはずなのだ。

加えて、あれだけの文字の全てがその真の力を持つのであれば、
直接橙子自身や、エーテル体に対して効果を投射しなくとも、
魔術師を一人殺害する手段はいくらでも編み出せる筈。

―――つまりは。

「虚仮脅し、だな」
低く、小さく、冷たく呟かれただけの橙子の言葉。

だが、それは、はっきりとした響きをもって、魔術師の耳に届く。

「―――どう言う意味、かね。アオザキ、トウコ」
変わらぬ笑みを浮かべた魔術師のその声には、隠し切れないひび割れが浮かんでいた。
ただ、橙子の一言だけで。

「あなたが『万能の秀才』などと呼ばれるのも良くわかる。
 魂の起源を要因として、魔術文字を抽出する技術は優れていることは認めよう。
 エーテル体に、大量の文字を投射し、同時に使役する技術も賞賛に値する。
 ―――だが、それだけだ。

 ルーン、エノク、ヒエログリフ、八卦、アステカ、マヤ。
 大層な種類を陳列してくれているがね、どれか一つだけでも極めていれば、
 今こうして私が口を開いていることもなかっただろうさ。

 一つとして突き詰められたもののない『万能』など、
 魔術師にとっては『無能』に等しい」

生徒の過ちを指摘する教師の口調。
明らかに自らより高みにたって、批評する若すぎる魔術師に、ギオムの顔に押し殺した憤怒が浮かんだ。

「―――黙れ、小娘。私がその気になればいつでも貴様など、欠片も残さずに―――」
「出来るのならば、さっさとやればいい。
 いずれにしても、いたずらに時間を浪費するのは得策とは言えないぞ、ギオム。
 待っているのは破滅だけだ」
カツン。

甲高い音を立てて、ギオムが靴底で床を打ち、どこかぎこちない動作で本の山から立ち上がる。
「黙れといっている。いずれにせよ、貴様に私を害す手段はあるまい。
 精々がその趣味の悪いペットで、自己を護る程度が関の山だ。大口を叩くな、小娘」

「別に、私が手を下す必要はないんだ。もともと、荒事は私の領分ではないしね」
「もういい。それ以上、囀るな、小娘」
カツン。

もう一度、踏み鳴らされる床。もはやギオムの表情からは余裕が消えていた。

ほんの僅かな、橙子の言葉は、彼自身が自覚している欠点を強かに抉ったようだった。
しかし、この程度の挑発で、あっさりと我を忘れるようでは――――。

(まあ、アルバの兄弟子、というのならこんなものかも知れないが)

再び、右手を振り上げた魔術師を冷ややかな眼で見つめながら、
橙子の指先は全く関係の無い方向―――彼女らが対峙する部屋の壁面を指差した。

「タイムリミットのようだよ、ギオム。そろそろ、騒々しい連中のお出ましだ」
「ほざけ―――」
冷淡な橙子の言葉に、激昂寸前のギオムの言葉が重なり―――。
更に、彼のその声をかき消すように。

熱風を伴った爆音が、地下の居室を揺るがした。


8.


魔術師ギオムの異界。その中央部たる、図書の間の壁に盛大に風穴を開けて姿を現したのは
鮮血で彩られた赤いコートを纏った魔術師―――コルネリウス=アルバであった。

彼は、場違いなほどの陽気な笑顔を湛えて、橙子に向けて手を振った。
「やあ、またせたね。アオザキ! セイギノミカタの登場だ!!」

突如訪れた、暴戻な破壊者に半ば呆然たる視線を向けるギオム。

「コルネリウス―――だと?」
「おお、親愛なる兄弟子、ギオム。何を驚きになっているのです?
 このアルバが、『不出来な人形』を圧殺する様を、まさかご覧になっていなかったのですか?」
それは酷い、と、アルバは深々と嘆息し、薄く侮蔑の笑みをその口元に浮かべた。

「―――それともまさか、この部屋を包む結界程度を、
 このコルネリウス=アルバが突破できないともお思いでしたか?」

「私の使役するゲヘナの炎なら、この程度の結界に風穴を開ける程度のことなど造作もないこと。
 あまり、見くびらないで頂きたいな。ギオム」

完全に彼を見下している弟弟子に、ギオムの額に青筋が浮かぶ。
「調子に乗るな、コルネリウス。例え、人形を―――」

しかし、憤怒に打ち震える彼の言葉は、またしても壁が粉砕される音に打ち消された。

「―――!?」
声を失ったギオムが、向けた視線の先には無造作に右手を突き出した格好の黒いコートの魔術師の姿があった。

足元に転がる瓦礫を踏み散らしながら、図書の部屋に踏む入る荒耶宗蓮は、アルバと橙子の姿を確認すると
いつもながらの苦渋の表情で呟いた。

「まだ健在であったか、アオザキ。コルネリウス」
「健在でなかった方がよかったように聞こえるぞ。アラヤ」
「私は事実を確認したまでだが」
「わかってはいるんだが。その表情で言われると、どうもね」

「貴様ら――――、一体、どうやって――――」

「どうやって、たどり着いたか、という質問なら、
 魔術師が3人、仲良く迷子にでもなると思ったのか?
 何のために、すなおに私が、一人でのこのこと工房に招かれたと思っている?」

「ま、どれだけ複雑な迷路であっても、
 アオザキというゴール地点が探知できれば、直進すればいい、ということだ。
 お互いを探知する術を前もって用意しておくことなど、容易いことだからね。
 お分かりかな? ギオム」
アルバは指を振りながら、かつての兄弟子に向けて嗤った。

「どうやって、結界を壊したのか、という質問なら、
 ―――要するに、あなたの結界はあなたが自負するほど対した物ではない。それだけだろう」

「―――き、さま」

「毒づきたく気持ちはわからないでもないが、どうせなら建設的な台詞を残した方がいい。
 呪いの言葉くらいなら、聞いてやる」

あまりの侮辱。
あまりの憤怒に、ギオムは一時、言葉を失った。

それは、協会の魔術師達を相手にするには、余りにも思慮の足りない行為である。

僅かな空白の時間に、橙子は二人の魔術師に、命じた。
「アラヤ。例の結界を」
「承知した」

「アルバ。このうっとうしい文字の源は本だ。焼き尽くせ」
「まあ、今回は君が指示をすることは承諾済みだからね。
 唯々諾々として従おう」

「――――私の工房で、私の力を、見くびるな」
ひび割れた人形師の言葉に、蠢く文字達が、一斉に、降り注ぐ。
しかし。

「不倶、」
荒耶の周囲に。

「金剛、」
アルバの周囲に。

「蛇蠍、」
そして橙子の周囲に。

荒耶宗蓮の結界は、荒耶自身だけではなく、橙子とアルバの周囲に展開された。
力ある文字たちは彼らの外套に触れることさえ出来ず、黒い魔術師の結界に阻まれて、消える。

その光景に、ギオムが、半ばうわ言のように、呟いた。
「結界、だと。ここは、私の結界の中だぞ――――?」

「―――惜しいな。これだけの魔術文字を操る才がありながら。
 その力、一つに収束させれば、あるいは、我が結界を崩壊させうるが――――」

本心からかの魔術師の才を惜しむ荒耶の声に、恍惚たる魔術の詠唱が重なった。

「手遅れ、か」
「I am the order. Therefore, you will be defeated securely―――――!!」

詠唱と共に、突き出されたアルバの右腕を起点として、
魔術師の図書館に、炎の嵐が吹き荒れた。

紡ぎだされた炎の舌は、一瞬のうちに、ギオムの書物を灰燼へと変えていく。
しかし、その暴威をこの異界の主がただ眺めているわけもない。

「防げ!!」
悲鳴に近い、絶叫に従い、数種の文字が次々に、書物自身に、工房の壁面に自らを刻印する。

おそらくは、耐火のルーンだろう。
アルバの召還した火炎は、書物の半数を塵に変えた段階で打ち消された。


「――――貴様」
まさか、アルバの攻勢魔術が、自らの守護結界の威力を上回るとは考えていなったギオムは
かつての弟弟子に対して、憎悪の視線を向ける。

「――――貴様」
まさか、全ての書物を焼き尽くす前に、あの程度の魔術文字によって、炎を退散させられるとは
考えていなかったアルバは、かつての兄弟子に対して、憤怒と、歓喜の視線を向けた。

しかし、ギオムがアルバに対して、これ以上の攻勢を仕掛けることはなかった。

その余力も、時間も、余命も、彼には残されていなかったのだから。

吹き荒れる炎と、叩きつけられる文字の光林の中。
蒼崎橙子は、ギオムの至近にまで、駆け寄っていた。。

―――影絵の魔物を引き連れて。


「――――貴様」
橙子の姿を、至近でようやく視認したギオムは、ただ、同じ台詞を繰り返す。
その言葉にもはや意味はなく、ただ彼になんら余裕がないことを示しているに過ぎなかった。


ぞむ。


槍と化した黒影が、銀の魔術師の体に風穴を空けた。

ごぶり、とにごった血が、ギオムの口からこぼれ出る。

ばしゃり、とバケツをぶちまけたような音を立てて、大量の血液が
魔術師の足元に血溜りを作った。

ばしゃ、と血溜りの中に膝をつくる魔術師のその様は、
まるで―――糸の切れた人形だった。

それでも、まだ、その瞳が人形にはありえない意志の光を湛えて、
自らを見下ろす、橙色の人形師を見上げていた。

「―――見事」
血を吐きながら、微かな笑い―――賞賛と自嘲の笑みを魔術師は浮かべた。
そして、震える喉から、最後の言葉を搾り出していく。

その様子を、橙子は感情を消した目で見下ろしていた。

「アオザキよ。
 突き詰められない万能は、無能にも劣る。
 そのような、こと。私自身が、一番よく知っているのだよ」

「つまりは、殺されるために、私たちを招き入れたか」

「まさか、そうではない―――
 自らを追い詰め、協会の魔術師を悉く、避けることができたのなら、
 あるいは、次の扉を開けることができるかも、知れぬ。
 そう―――思った―――」

ごぼり。再び、対象の血塊が、ギオムの口から吐き出された。
もはや、数秒も持つまい。

あくまでも冷たい瞳で、その様を見下ろしながら、橙子は問いを投げかけた。
「―――ギオム、最後に一つ、聞こう。お前は、何を求める」

おそらくは、最後の問いと、最後の答え。
魔術師は焦点を失った瞳で、中空を凝視し、そして恍惚の笑みを浮かべて―――答えた。

「―――永遠に刻まれる―――栄光―――を―――」

ばしゃり。

最後の言葉を口にして、魔術師ギオムは、自らの創り上げた血溜りの中に倒れ臥した。
その魔術師の抜け殻に、橙子はただ、首を横に振る。

「―――それでは―――届かない。
 ここで死ねることは、おそらくあなたにとって、幸運だ」
慰めるわけでも、蔑むわけでもなく。
ただ、淡々と、蒼崎橙子は、魔術師の骸に最後の言葉を告げた。

「事切れたか」
気が付けば橙子の背後に、荒耶の姿があった。
あえて、彼に振り向くことなく、橙子はそっけなく首を振った。

「ああ、あとは書物を始末して――――」
だが、その時。

「Go away the shadow. It is imposible――――」
橙子の言葉に、一際恍惚たる呪文の響きが重なった。

「―――何?」
耳に届く、アルバの詠唱の声に、橙子は耳を疑った。

振り返れば、両目をかたく閉ざした紅い魔術師が、一心不乱に詠唱を続けている。

「おい、何故、まだ呪文なんて詠唱してるんだ、あいつは――――?!」
「本を焼き尽くすつもりであろうが―――いかんな。陶酔深度が深すぎる」
「何を平然としている、アラヤ! さっさとアルバを止めないか!!」
ちらり、とアルバに眼をむけた荒耶は、あっさりと首を横に振って見せた。

「無理だな。ああなると、もはや手がつけられん」
「この部屋ごと溶解させるつもりか? あいつは!!」
「あるいは、そのつもりだろうな」
「だから、なんで平然としているんだ、お前―――」

「I am the order―――――」
破壊の魔術の最後の文節を、広大な部屋に響き渡る声量で詠い上げるアルバに。

「やめろ、アルバ―――――」
その彼を止めるべく駆け出した橙子だが―――。

一瞬の内に、蒼崎橙子の世界は赤い炎に包まれて―――消えた。

8.

東の空が、うっすらと白み始めてくる時刻。
奇妙な三人組が、人目を避けるように裏路地を歩いていた。

別段、奇矯な格好をしているわけではないが―――皆、一様に煤だらけであり、
焼け焦げたコートを羽織っているのは、やはり奇妙と称するべきだろう。

「やあ、こういうのをなんといったかな、日本の諺で」
唯一、紅いコートを羽織った青年が、煤だらけの顔に笑顔を浮かべながら、
残りの二人を振り返り、手を打った。

「そう! 弘法も木から落ちる、だったか」
「惜しいな。二つの諺が混じっている」
同じく煤だらけの顔に、苦渋に満ちた表情を浮かべた男は、淡々と青年の過ちを指摘した。

「ほう、それは失礼。正解は何かな」
「弘法にも筆の誤り。猿も木から落ちる」

「なるほど、覚えておこう
 やはり、人はこうして過ちから、学習し成長していくものだ。
 そうは思わないかね、アラヤ」
「正論ではあるな」
「・・・漫才は止めろ、お前ら」
煤だらけの顔に、怒気をみなぎらせて、それでも橙子は何かをこらえるような口調だった。

「やあ、アオザキ。いいかげん機嫌を直してくれないか―――」
「加減、というものを知らないのか、お前は」
ふつふつと湧き上がる殺意を、押し殺した彼女の声に、青年は軽薄そうな態度で肩をすくめる。

「加減をしたから、ちゃんとこうして二本の足で歩いているんじゃないか」
「黙れ。バックファイヤーで、黒焦げになった男が言うな」
「ふむ。我が結界を撃つ破ってのことだからな。
 コルネリウスを賞賛しなくてはならんが―――私もまだまだ、研鑚が足りない」
「おお、アラヤ、珍しく前向きじゃないか。
 どうだね、アオザキ。君も過去のことは一つ水に流してだね――――」

「黙れ。それ以上、囀るな。
 絶対、金輪際、お前らとは仕事はせん。一人でやったほうがまだましだ」

「随分と、連れないことを言う。
 仕事自体は、完璧だったじゃないか。まあ、悉く死体が灰燼に貸したのは不幸なミスだが」
「よほど、兄弟子の後を追いたいらしいな、アルバ」

繰り広げられる、橙子とアルバのそれこそ、不毛な会話を聞きながら。

荒耶宗蓮が、こっそりと溜息をついていた。
相変わらず、苦渋の表情を浮かべてながら。

 

 


ハローウィンには、まだ早いロンドンの夜。
血と煤に汚れた影が、闊歩する。

血と炎と魔術に彩られた魔術師たちの騒々しい一夜が、ようやく明けようとしていた。



須啓です。
「魔術師の宴」、ようやく完成です。
と、いってもいつもにまして中途半端な内容ですが・・・精進が足らんなあ、としみじみ。

テーマとしては「悪役を討伐しに行く、三馬鹿トリオ」ってな感じです。
オリキャラを出すのも抵抗があったのですが、まあ、引き立て役、ということで。

しかし、『橙子さんの協会時代』というのは、結構怖い題材だなあ、と。
テーマが被る可能性は高いし、他の人と重なったらへ打ちのめされてしまいそうですし(笑。

こんな作品ですが少しでも楽しんで頂けたら幸いです。

メールや、BBSで感想くださると非常に励みになりますので、よろしくお願いいたします。

2002年10月5日。


 


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