幸せですか?   「空の境界SS」

1.
黒髪、黒いカッターシャツに、黒のズボン。
ついでに黒ぶちの眼鏡に、黒い革靴。

私の兄、黒桐幹也相変わらずの完璧なまでの黒ずくめで、ぼんやりと噴水の前に佇んでいた。

その噴水を丁度、見下ろせる位置にある駅の2階。
窓の手すりにもたれるようにして、私、黒桐鮮花は幹也の様子を観察している。

ちらりと腕時計の時間を確認すると、針は11時45分丁度を差していた。
待ち合わせの時間は、正午丁度だから、まだ15分ほど、こうして幹也を観察していても構わないことになる。
・・・もっとも、もう10分以上はこうして幹也の姿を眺めているんだけれど。

「我ながら、なにやってるんだろ」
そんな独り言をこぼしながらも、私、黒桐鮮花は口元が緩むのを抑えきれなかった。

なんだかんだいって、最近は幹也と二人でデートする機会なんてなかったのだ。
思えば二人っきりのチャンスなんて、幹也の入院の時以来かもしれない。

降りた駅のホームから、待ち合わせ場所に先にきてくれた幹也を見つけて、
それが、あまりに嬉しくて、どうやって声をかければ一番いいのか、なんて考えているのだ。

・・・我が兄を眺めているだけで、幸せになれるんだから、
私も案外と安上がりなのかもしれないなけれど。

でも、さすがにこれ以上、幹也を立ちっぱなしにさせておくわけにも行かない。
そろそろ―――?!

ようやく幹也から視線を外そうとした矢先、私は視界の端にとんでもないものを捉えて絶句した。

藍色の紬を着た、黒い―――いや、漆黒といっても良いほどの艶のある黒髪の少女。

・・・両儀、式。
目下のところ、黒桐鮮花の最大のライバルであり、障害物であり、厄介事であり、疫病神だ。

「式? な、なんで――――?」
ああ、こぼれた声が震えているのが、自分でもわかる。
それは動揺のためか、怒りの為か、恐怖のためかと聞かれれば―――多分、全部当てはまる。


ここは、礼園と橙子さんの事務所の中間点にある駅だ。
でも、兄や式のアパートとは、事務所を挟んで反対側にある訳で、余程の用でもない限り、
兄や式―――もちろん私だって、こんな場所にいるはずが無いのだ。

だからわざわざこんな場所を幹也との待ち合わせの場所に選んだっていうのに!!

「なんで、あんたがいるのよ、こら、式!」
言いながら、窓ガラスを叩こうとした自分の手を、寸前のところで私は止めた。
あの野生動物並みの五感を持つ女ならば、ひょっとしたら気付くかもしれないから。


「ああ、こら、そっちに行くんじゃないわよ。ああ、違うって、そっちじゃない!」
私のそんな切実な願いもむなしく、
黒髪の疫病神は、飄々と重さを感じさせない足取りで、幹也に近づいていく。
真っ直ぐに近づいているところを見ると、奴はとっくに幹也に気付いているに違いない。

―――ダメだ。
今から階段を駆け下りても、式の方が先に幹也にたどり着く。

ああ、なんて、こと。

なんだって私は長々と幹也ウオッチングなんかしてたんだ!
さっさと幹也の所に行っておけば、こんなことには――――!!

悶絶する私を尻目に、式はどんどんと幹也に近づいて行き―――
どうやら、幹也も式に気付いてしまったようだ。


―――ああ、ダメ。なんで、気付くのよ、バカ、幹也。普段は鈍いくせに!


式の方向に顔を向けた幹也の肩が、驚いたように微かに跳ね上がる。
そうして、二人はなにか、会話をはじめてしまった。

ああ、何を一体話してるのよ!

あの二人のことだから―――多分―――。

(以下、鮮花の妄想会話)

『あれ、式』
『何してるんだ、お前。こんな所で』
『うん? ああ、鮮花と待ち合わせ』
『・・・へえ、俺にはそんなこと、言わなかったな』
『映画に行かないか、って誘っただろ、この間。すっかり忘れてるんだな、君は』
『あの時は、鮮花の名前は出なかったじゃないか』
『映画、って言っただけで後の台詞を聴きもしなかっただろ』

(以上、妄想会話)

・・・なんか、異様なまでにリアルに想像してしまったけど、何故だろう。
あまり間違っていないという確信があるわ。

「ああ、もう、あの二人の会話をシミュレートしてる場合じゃないでしょう!」
自分自身に、小声で怒鳴って、私は窓下の壁に膝蹴りを見舞う。
なにか、妙な音がした気もするけれど、今はそんなことは、どうでもいい。

とにかく式!

まさか、あんた。邪魔をする気じゃないでしょうね!

幹也と二人っきりでデート(幹也にその認識がないのはこの際無視するとして)する
約束を取り付けるのに、私がどれだけ苦心したことか。


そんな内心の私の声が届くわけもなく、幹也は能天気に両手を打ち合わせた。

『そうだ、式も一緒に行かないか?』
あ、今、そう言ったわね! 言ったでしょう! 
言ったに違いないわ、こら、幹也あ!!

『この際だし、少しは鮮花と仲良くなってみるつもりなんか、ないかな』
なんて、言っているのが手にとるようにわかるわ!
ああ、まったく、あの男は! 殺るか、殺られるかの私たちが仲良くなれる訳ないでしょうが!

がんがん、とほとんど無意識に私は、膝蹴りを繰り返す。

ああ、せっかく、幹也と二人っきりの時間が――――。

うん?・・・でも、考えてみたら、いい判断じゃないかしら。
あの素直じゃない女なら、そんな誘われ方したら――。

そら、やっぱり、式は、憮然とした顔になった。
よし! そのまま機嫌を損ねなさい!

『なんだって、俺が鮮花と仲良くならなきゃいけないんだ。
 別に、俺はあいつを嫌っているつもりはないぞ』
・・・私だって、好きであんたを嫌ってるわけじゃないわよ。

『だって、式も鮮花もお互いに顔を合わすともめるじゃないか』
あのね。式と私と幹也がそろうと揉めるんです。
そんなこと―――わかってないでしょうね、幹也は。

『いいよ、たまには鮮花に譲ってやる』

―――あえ?
あれ、なんで私、そんな風に思ったんだろ。式が、そんなこと言うわけないじゃない。

私のその軽い困惑は、式に手を握ろうとする幹也の姿にあっさりと霧散した。
・・・知らない間に積極的になってるじゃない、幹也。

対する、式は、煩わしげ、幹也のその手を軽く振り払って。

『じゃあな』
多分、そんな言葉を吐いた式の眼が、一瞬、笑ったように思えた。


―――それは、とても優しい、瞳。


そこにあったのは、紛れも無い、幸せの笑み。
そこにあったのは、紛れも無い、幸せの情景。


眼下のその光景に、私は、目を奪われた。

幹也は幸せな人だ。


そんな事、わかってる。
だから、誰が傍にいても、そこには穏やかな空気がある。幸せに思える光景がある。


でも、どうして、式が。
なんで、あなたが、そんなに―――――シアワセそうに、微笑んでいるだろう。

私は、その一瞬の微笑みに、見惚れてしまって―――――。

そのことに気付いたときに、私は。


――――逃げるように、その場を立ち去った。


2.

「それで、黒桐の奴をほったらかしにして逃げてきた、という訳か」
「―――はい」
逃げてきた、と言われて反射的に何かを言い返そうと思ったけど、結局は私は、
反論の言葉を飲み込んで、首を縦に振った。

青春だねえ、なんて古臭い台詞を吐いて笑う橙子師は、本当に楽しそうだ。

うう、やっぱり寄りにもよって、橙子師に相談しに来たのは間違いだったか。

でも、確かに、私はあの場所から、逃げ出してしまった。
それは―――自分でも認めるしかない。

あの二人に見惚れてしまっていた自分に気付いたとき、
瞬間的に、頭に血が上ってしまっていた。

怒りなのか、悲しみなのか。
嫉妬なのか、羨望なのか。

判然としないそんな感情に突き動かされて、
私はあの光景から、反射的に目を背けた。

今にして思えば、それは、ある意味では賢明な判断だったのかもしれない。
決して、ベストの判断だったとは思わないけれど。

あのまま幹也にあっても、多分―――笑えなかった。
いや、酷く理不尽な言葉を彼に、吐き出してしまっていたかもしれない。

せっかくの貴重な幹也との時間を浪費してしまうことよりも、
あんな状態で幹也に会う方が、きっと、取り返しのつかない、致命的なことになったかも知れない。

・・・まあ、こんな風に考えられるようになったもの、
橙子師に一頻り、愚痴を吐き出して幾分、気持ちが楽になったからだけど。


「短時間で気持ちの整理をつけるために、わざわざ私の所まで愚痴を言いに来る、か。
 感情のままに行動するかと思えば、妙なところで冷静だな。
 ま、そのアンバランスさが、らしいといえばらしいな、鮮花」

・・・返す言葉もないとはこのことだろう。

そう、とっさに、電車に飛び乗った私は、必然的に、橙子さんの事務所に足を向けていた。
まさか、礼園に戻るつもりはなかったし、一人町を彷徨うのも不毛だと思ったから。

だって、あんな気持ちになっても、まだ私は幹也と会うことを放棄したわけじゃなかったのだ。
・・・その点は、我ながら中々の心構えじゃないかな、と思う。

だから、私は橙子師に愛に来たのだ。
一人で悶々とするより、誰かに気持ちをぶちまけた方が気持ちの整理は
きっと早いと思ったからだ。

いきなりの私の訪問にも、橙子さんは別に嫌な顔をするでもなく、
にやにやと笑いながらを唐突な私の話を聴いてくれた。

そのことには素直に感謝しているけど―――、
橙子師にからかられる材料を提供するのやはり、軽率だったかもしれない。

「しかし、まあ、あれだぞ、鮮花。
 なかなか面白い話を聞かせてもらったが、要するに全てお前の思い込みじゃないか。
 一人で、勝手に二人の会話を想像して、一人で勝手に、ショックを受けて逃げ出したわけだ。
 熱でもあるんじゃないのか、お前さん」
―――う。
散々な言われようだが、事実その通りなので、自然、言い返す言葉にも力がなかった。

「・・・一人相撲だというのは、認めます。でも、そんなのいつものことですから」
「いつも、お前はあの二人の会話を想像してるのか。
 お前には盗聴器は要らないみたいだね。魔術師より脚本家でも目指してみるか?」
うう、やぶ蛇だった。
こういうときは、黙っている方がまだましだったかもしれない。

赤面する私を見つめる橙子さんは、
出来の悪い生徒をいじめる、サディスティックな教師の笑みを湛えていた。

「それで? 悩める乙女としては、なんでまた、逃げたりしたのか、原因はつかめたかな」
「・・・それは、多分」

あそこに、幹也の傍に。
もう、私の望む光景を見てしまったから。

だから、もう、私の居場所は―――私の望む居場所は無いんじゃないか。

それを確認するのが、怖かった。

あそこに、あれ以上いたら。
あの二人を、あれ以上見ていたら。

そのことが、分かってしまいそうで。

だから、私は、逃げ出した―――そう、思う。


沈黙と共に思考に沈む私を、橙子師は、未熟者め、と言いたそうな瞳で一瞥すると
苦笑交じりに肩をすくめた。

「ま、なにか小難しいことを考えているようだけど、話は単純だろう?
 要するに、「式に余裕を見せられてむかついた」というのが一つ」
・・・それはある、のかもしれない。
でも、そんなことで、私は逃げ出したり―――。

「もう一つは、罪悪感。まあ、遠慮といった方が適切かな。
 鮮花が、式に遠慮するなんて随分とらしくない、と言えばそれまでだが、
 まあ、らしと言えばらしいかも知れないね」
橙子師のその言葉は、私には予想もしなかったモノだった。

「―――遠慮、ですか?」
私が、式に遠慮? それこそ、まさか、だ。
だいたい、私は式に出遅れてしまっているっていうのにーーー。

罪悪感にしても、私が式にそんなもの感じる理由なんて、ない。

「なんで、私が式に遠慮しなくちゃいけないんですか」
「なんだ、やっぱり、別の小難しい理由を考えていたのか?
 例えば、もう黒桐の傍に自分の居場所がない―――なんて乙女チックなことでも考えていたか?」
うっ。
図星を指されて、一層、頬が熱くなる。

羞恥に沈黙する私に、橙子師はため息混じりの笑みを浮かべた。

「黒桐の傍に、お前の場所が無い? そんなの何時だって無かっただろう。
 無いのなら創ればいいだけ。その場所に、他の誰かが居座るのなら排除すればいい。
 今までお前はそう考えてきたはずだろうが。壮大な人生プランを練ってまで、ね」
橙子師の言葉は容赦は無かったが、事実、その通りだ。
幹也の傍に、私の居場所がないなんて―――そんなこと、分かってた。

黙考する私に構わずに、橙子師は私の感情を分解していく。

「お前が混乱したのは、排除すべき対象が、式だったからだろう」

そんな筈、ないです。

微かに唇を動かした私を、片手を上げて橙子師は制止した。

「いいから、聴け。鮮花。お前が見惚れたのは、黒桐ではなくて、式の姿だろう?
 式が優しく微笑む顔なんて―――まあ、想像しただけでも背筋に悪寒がはしるが、
 まあ、それなりに衝撃ではあるだろうな。彼女の過去と現在を知る人間にとってはね」

・・・確かに、私があの時、目を奪われたのは、式の方だったかも知れない。
・・・でも、やっぱり、そんなの変だ。

喉まで出かかった言葉を私む私に、橙子師は、頷きながら言葉を紡いでいく。

「両儀。式。織。「」。太極。殺人鬼―――この辺りの話はしたな。

 最低限の想像力を持った人間であるならば、その話から
 両儀式という『フシアワセな』少女に同情や哀れみを持たないほうがおかしいんだ。
 例え、反目する関係であったとしても、ね。

 だから、鮮花。両儀式から幸せの要因を奪おうとする行為に、罪悪感や遠慮を
 感じることは至極当然なんだ。

 お前はまだなんとか、黒桐の側にいる人間だからね」

罪悪感。

橙子師のその言葉が、やけに耳に残った。

・・・そうなのだろうか。

幹也や橙子師の言葉から想起した式の過去。
私は、式にそんなに同情していたというのだろうか。

脳裏に浮かぶ、式のシアワセな笑顔。
それを奪うことに、罪悪感を感じたとでもいうのだろうか。

それが本当なら。
なんて――――私は――――。

「鮮花。
 感情に流されることは、愚かだが、感情の存在を否定するのは更に救い様がないぞ。
 1+1は2じゃないと、叫んだところで事実は変わらないのと同じだ」
師の言葉に、私は自分に問い返す。

師によって分解された自分の感情の破片を、自らの脳裏で再構築する。

この感情は、何か。
羨望でも、嫉妬でもなくて、本当に―――遠慮なのか。

もし、それが本当なら―――なんて。

――――なんて、傲慢さだ。

「しかし、まあ黒桐家の人間、というのは本当に退屈させないな。
 兄といい、妹といい―――、そういえば秋巳刑事も親戚だったか。
 ますます興味深いな、お前らの家系は」

僅かに唇をかむ私を尻目に、橙子師は何故か感慨深そうに、そんなことをいった。
そして、笑いの篭った目で、未熟な弟子を見据える。

「さて、橙子先生の人生相談はこの辺りでお開きだ。
 多少の気持ちの整理はついたかね、迷える子羊よ」
「・・・いいえ」
一瞬の沈黙のあと、私は素直に首を横に振った。

「まだ、納得はしていません。けれど、必要な助言は頂いたと思います。
 ありがとうございました」
素直で大変結構、といいながら橙子さんは机の引出しから煙草を取り出した。

「ま、人間は理不尽な生き物だからね。
 自分の幸せのためには、誰かを不幸せにすることもあるし、その逆もだってある。
 誰もが幸せに――――そんなの、魔法使いにだって出来やしないんだからな」
紫煙を吐き出しながら、呟く橙子さんは何時になく遠い目をしていた。

・・・魔法?
橙子師はそんな言葉を、確かに口にした。

それに、今の台詞は、どこかで――――ああ、確か、それは幹也がいった台詞に似ているんだ。

幹也が、いつか何気なく、口にした言葉。
あの時も、すごくショックを受けたのを覚えている。

あの何気ない台詞の中に、黒桐幹也の本質を垣間見てしまったから。


まさか、同じような言葉を橙子師から、聞くなんて思いもしなかった私は、
その問いを、師に向けてみた。

「橙子さん、全ての人間が全員、幸せになることってできるって、思いますか。
 そんな冗談みたいな魔法―――あると思いますか」
「あるとしたら、本当に悪い冗談だな。
 気味が悪いだろ? 全員が幸せな世界、なんて」
常識人が聞いたら、目くじらを立てるような言葉を橙子さんはごく平然と吐き出した。
そして、思い出したかのように、眉をひそめて私を睨む。

「鮮花。魔術師が軽軽しく『魔法』なんて口にするなと教えてるだろうが」
「橙子さんが言ったんじゃないですか、魔法使いにだってできないって―――」
その指摘に、ふむ、と、橙子さんはまずい煙草を吸ったときのように顔をしかめた。

「どうにも柄にも無いことを話していた為で、調子が狂ってるか。
 お前のせいだぞ、鮮花」
「責任転嫁は止めてください。自らの非の存在を否定することは救い様がないです」
「違いない」
笑って橙子師は、灰皿を指で弾いた。

「ようやく、調子が出てきたか、鮮花。
 では、ついでに聴こうか。君は、そんな魔法が存在すると思うか?」
「全ての人間を、幸せにする魔法。ですか」
「そう。といっても、明確な返答のためには、まず幸せがなんなのか、
 についての定義が必要になるんだが・・・」
眼鏡を外した橙子師が、幸せ、なんて単語を口にするのは凄く違和感があった。

「人の幸せが何か、分からずに彷徨いつづけている魔術師なんてのもいるくらいだからね。
 その定義は簡単じゃないんだ」
師の呟きに、私も無意識のうちに首を縦に振っていた。
幸せ、なんて形の無い、曖昧なもの、どうやって定義なんてするんだろう。

―――人はそれを見て、感じる能力を持っているのに。

「例えば、鮮花。科学がこの先も限りなく進歩していくとして、
 その先に全ての人間がの幸福に生きる世界なんてあると思うか?
 ・・・そうだな、卑近な例えをすれば、『ドラえもん』の世界が実現されたとして、だ。
 その世界に住む人間は、全員が幸福だと、思うか?」

―――そんなこと、思いません。

自然と口を突きそうになったその言葉を押し殺した。

少しの黙考の後、私は意図的に違う回答を探して、口にする。

「・・・ひょっとしたら、実現されるのかもしれません。
 例えば―――脳をいじるとか、薬品」
「それは違う。鮮花」
我ながらSF的な返答を、苦笑交じりに橙子師が遮った。

「脳手術や薬品で、幸せを感じる人間?
 鮮花。そんなのは、人形だ。人間とは言わない」
それは、極論ではないだろうか。
そうは、思ったが、同時に納得もしていた。

確かに、そうなのかも知れない。

「魔術であっても―――例え魔法であっても、同じ事だよ。
 どんな大魔術師でも、大魔法使いでも・・・人を人のまま、幸せになんか、出来はしない。
 ―――結局のところ、ヒトをシアワセに出来るのは、ヒトだけなんだから」

煙草をもみ消しながら、そう呟く橙子師の目は、多分私を見てはいなかった。

琥珀色の瞳が、私には計り知れない憂いに僅かに翳る。

・・・でも、それは一瞬だった。

肩をすくめて、私を見る橙子師の瞳には、再び、意地悪な笑みが浮かんでいたから。

「ま、神様だって信じる者しか救ってくれないんだ。
 全人類をシアワセに、なんて、ちょっと贅沢すぎる」

「私も、そう思います。でも―――なんだか、幹也みたいですね。橙子さん」
我ながら失礼な言葉に、違いない、と橙子師は憮然とした表情を浮かべた。

「確かにこういうのは黒桐の仕事なんだが。
 なんだ、私も知らない間に、あいつに随分と毒されいたということか。
 やれやれ、我ながら、なんて、堕落だ」
減給モノだな、黒桐、なんて、八つ当たりもいいところの台詞を橙子師はこぼした。

・・・これ以上給料減らされたら、幹也、生活できるのかしら。

「ま、結局のところ、人の幸せは、人が決めるしかない、ということだよ。
 幸せの定義なんて、科学にだって、魔術にだって―――魔法にだって出来ないんだからな。

 他人から強奪するしかない、幸せのあり方もあれば、
 他人と共有することで、初めて得られる幸せもある。
 何が正しいか、なんて問題ではないよ。ただ、君がどんなあり方をもとめるか。それだけだ」

私が、どんなあり方を求めるか―――?


――――そんなの、決まっている。


昔から、ずっと。
これからも、きっと。


―――よし。


やって、一人頷く私を、橙子師は楽しげな、好奇の視線で見つめていた。


その師に、私も好奇に満ちた問いを返してみた。
「橙子さんは、今、幸せですか?」

「いちいち所長に指図する従業員に、言うことを聴かない凶暴なアルバイトに囲まれているからね。
 挙句に、生意気な弟子を抱えているとあっては―――多分、不幸なんだろうなあ」


橙子師は真顔で、そう言った。


3.

時計の針は、もう13時30分を指そうとしていた。
黒ずくめの幹也は、先刻とまったく同じ場所で、同じように佇んでいた。

今度は躊躇わずに、私は一気に、幹也に駆け寄っていった。
全速力で、走り、急いできたことをアピールしてみせる。

駆け寄る私に気付くと、幹也は安堵とかるい怒りの表情を私に向けた。

「遅くなって済みません。待ちましたか、兄さん」
「あのな、鮮花。約束は1時で、今はもう2時だぞ。
 遅れるなら、ちゃんと―――まあ、仕方ないけれど」
礼園は外部との連絡のための手段を著しく欠く。
そのことが分かっている幹也は、あっさりと私を咎めるのをやめて大きく一つ伸びをした。

その拍子に、伸ばした前髪が揺れて、痛々しい傷痕が僅かに顔を覗かせる。
そんな傷を負っても、幹也は式を否定しない。

でも、きっと、私のせいでそんな傷を負っても、幹也は私を拒んだりしない。

だから、まだ、諦めるのは早い。


さあ、行こう。

今はそこに居場所が無くても、きっと必ず。
まだ、私は諦めた訳じゃないんだから。

だから、相手が式であっても、遠慮なんかしていられないんだ。
いや、相手が式なんだから、遠慮なんかしていられないんだ。


そんなことは、黒桐鮮花と黒桐幹也と両儀式に対する侮辱以外の何者でもないんだから。


「で、なんの映画を見るんだ?」
私のそんな決意を知る由も無く、幹也は能天気な問いをする。
そんな彼に、私は、きっぱりと言ってやった。


「映画は、キャンセルです」
「・・・お前ね」
「だって、もう一時間も消費してしまったんですから。
 礼園の門限は厳しいんですよ? これ以上の時間を映画なんかで浪費するのはダメです」
「ダメです、ってお前。今日は映画を見ることが目的なんだろ?」

大体、とまだ文句が続けようとする幹也に、私はそっと手を伸ばした。


噴水の下。

丁度、さっき式がいた場所に立って、同じように、幹也の頬に軽く手を触れてみる。

「―――鮮花?」

明らかに戸惑っている幹也に、私は、できるだけ自然に微笑んで―――尋ねる。


「兄さんは、今、幸せですか?」
「鮮花? どうしたんだ、お前」
む。
まるで、病人を心配するような目でみたな、幹也。

でも、まあ、今は許してあげます。

寛大な心で、そう頷くと私は幹也の腕をとって、引張った。、

「何でもありません。さ、いきましょう。時間が無いんですから!」
「こら、鮮花、ひっぱるな!」
文句をこぼす幹也に笑いながら、私は思いっきり彼の腕に抱きついた。

『幸せですか?』
その問いの答えなんて、聞かなくても分かっているんだ。

でも。

いつか、きっと。

私なしで、幸せ、なんて言えなくしてあげますからね、幹也。

そうして、私と幹也の少し遅いデートがようやく、始まろうとしていた。

ちなみに。
なんで、式があんなところにいたのかを問い詰めたりとか。
実は橙子師が暗躍していたことが判明したりとか。
それを問い詰めてまたまた、騒動があったりしたんだけれど。


――――それは、また、別のお話。

(了)



須啓です。ということで、誰か私に幸せを下さい(こら。

最近、書くSSの悉くが、びみょ〜な感じな気がしておりますが、どんなもんでしょうか。
「鮮花」+「幸せの魔法」をテーマにしたかったんですけど・・・ちょっと、無理矢理でしたね。

かなり鮮花の心情に無理がある点は、反省すること頻りです。

橙子さんが、幸せを連発するのにはちょっと、抵抗があったりもするのですが、
まあ、暖かい師匠の一面ということで。

少しでも、楽しんでいただければ、幸いです。

メールBBSでご感想をいただけると、非常な励みになりますので、よろしくお願いいたします。

2002年10月14日。 須啓。

 


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