miss strange love


礼園はまるで監獄の様だと思った事がある。
外界との断絶といい、徹底した見張りといい。
生徒たる私としても時々自分が囚人であるかのような錯覚に陥ることがある。
仮に我々生徒を囚人だと考えるとすると、この囚人達は管理する側から見れば二種類に分類することが出来る。
すなわち模範囚とそれ以外である。
この模範囚達にも実情は二種類ある。ひとつは自らが囚人であることに気付いていないという生粋の礼園生徒に多いタイプ。
もうひとつはいずれ釈放されるのだからおとなしくその日を待とうというタイプである。
ではそれ以外の者達はどうかというと、実情は千差万別なのであるが、あえて管理の方法から考えれば二種類になるだろうか。
ひとつはあからさまな問題児タイプ。他校であれば不良と呼ばれる輩は礼園にも一応少数ながら生息している。
ただし大物は書類審査の段階で落ちてしまうし、
それを乗り越える程度の小物は教師連の徹底したマークにあって入学早晩壊滅するのが恒例化している。
ではもうひとつはどうかというと、表面的な問題を起こさないタイプである。ある意味では一番真っ当な連中とも言える。
彼女等は自らが囚人である事を自覚しており、その上で行動する。
自らの欲求とリスクと常識と才覚を天秤に掛け、規則の網目を潜り、裏ルートを探り、シスター達と虚々実々の暗闘を繰り広げる。
かくいう私もその一人ということになっている。
こう書くと何やら名門女学園に巣食う巨大な闇を連想しそうだが、
実際に行われるのは外部からの菓子,嗜好品の持ち込みと分配といったごくささやかな事である。
ちょっと組織立っているだけで。
私もその類にもれず、外部からささやかな嗜好品を持ち込むぐらいであり、
頻繁な外出が許可される以外は特に他人と違うところは無い。・・・多分。
あえていうなら、私は礼園の壁とも見張りとも違うものに幼少時から囚われている。
それに囚われること自体は年頃の少女ならおかしなことではない。だが、私が囚われたのは実の兄とのそれなのだ。
それ、つまり恋に囚われた時、相手が実の兄であることに動揺も逡巡も後悔もせずに
むしろ感謝したという辺りがまあ他人と違うところといえば言えるだろうか。

 

咽喉の内側を冷たい液体が流れ落ちる。
その冷たさは一瞬の後には焼けるような熱さに変わる。
その熱が咽喉を通り過ぎ、内臓に到達する頃には口腔内に液体はすでに無く、
舌の上には苦味と酸味とわずかに痺れた様な感覚が残る。
ほう、と熱を帯びた吐息をもらし、更に瓶から液体をグラスに注いだ。
何、ただの嗜好品、ぶどうジュースだ。・・・ちょっと発酵しているだけで。
ちらと正面の椅子に目をやるが、そこには誰も座っていない。同室の瀬尾は2杯程飲ませると寝てしまった。
こちらとしても共犯者に余り飲ませると分け前が減ってよろしくない。二日酔いでもされた日には足がつく可能性もある。
さわやかな笑顔で就寝のあいさつを交わし、後は手酌で飲んでいる。
ただ、一人で飲んでいると頭をもたげてくるものがある。
私は酔っている。
こんなとき、そう自覚する時がある。といってもお酒に酔っているわけではない。それはいつも私のなかにある。
私は夢想する。
幹也が、最愛の人が私だけを見て微笑んでいる。
幹也は私に向かって軽く手を広げ、「おいで、鮮花」と私の名前を呼んでくれる。
私は幹也の胸に身体ごと飛び込んで、手をそっとその背中に回して抱きしめる。
我ながら白く細い指先の左手で。
そして、真紅に染まったその右手で。
そう、私の夢のなかで、私の右手はいつも真っ赤な鮮血に濡れている。
だってそうでしょう?
式がいる限り、幹也は私に微笑んではくれない。
式の血でこの右手を真っ赤に染め上げなければ、幹也は私に振り向いてなどくれない。
だから、私はこの手を血で染め上げる為に魔術を志したのだから。
だから私は夢に酔う。
この血の色をした夢に酔っている。この心地よい鮮血の夢に。我が異常なる愛の為に。
無論現実には私は式を殺せない。実力そのものも及ばないし、なにより私が式を殺してしまえば幹也は私を許さないだろう。
そんなことわかっている。わかっていてなお、この夢は私にまとわりついて離れず、私を酔わせるのだ。
私は胸の内を吐き出すように大きくため息をつき、グラスの中の焼ける液体を飲み干した。


苦い。


その夜、私は眠れなかった。

 

○月×日
橙子師の事務所の扉をくぐると、橙子師と幹也が珍しい物を見る目でこちらを見ていた。
別に私が珍しい訳ではない。ただ私と式が肩を並べて扉をくぐって来たことが珍しいのだろう。
気持ちはわかる。私だってしたくはなかった。
「ほう、二人仲良くご登場とは珍しいな。雪でも降るか?」
案の定というか、早速橙子師が茶々を入れてきた。
私と式の間に漂う緊張感を少しでも感じれば、
いきなり摩訶不思議な力が働いて仲良くなったなどという事ではないことはわかるはずなのに。
式は無視を決め込んでソファにどさっと座り込んでしまったので、私が橙子さんに答える。
「仲良くなんてしてません。式とは偶然ビルの前でばったり鉢合わせただけです」
いかにも嫌そうな声で偶然とばったりを強調して言うと、橙子師も幹也も何となく事情を察したようだった。
そう、つまりはタイミングの問題だったのだ。
どちらかが5秒でも先にたどり着いていたら、お互い何食わぬ顔で、階段を上っていっただろう。
それがジャストのタイミングで私と式はビルの前にたどり着いてしまった。
そしてお互いに譲ることなく並んで階段を上り、肩を並べて扉をくぐったのだ。
我ながら子供じみた意地の張り合いだとは思う。
橙子師は涼しい顔をしているが、幹也の表情は「子供か君らは」といっている。
実際その通りなので、これ以上子供扱いされる前にこの件は打ち切りに、
「式、そんな意地を張り合うことは無いだろう。ちょっと譲れば済む事じゃないか」
する前に幹也が式に言った。『君は大人なんだから』というニュアンスが感じられる。
そうするとその前提として『子供相手に』がはいる事になる。
なんて、ことだ。私だけが幹也に子供扱いされている。
とは言え確かに子供じみた行動をした所ではあるし、ここで食ってかかったらますますいけない。自重自重・・・
「俺には別に譲る理由はないぜ。鮮花が年長者に譲れば良かったんだ」
「ちょっと式、勝手なこと言わないで!あなたにだけは譲らなきゃいけない理由なんてありません!」
式の声が聞こえた瞬間、私は条件反射的に食って掛かっていた。
さて、こうなると自分でも止まらない。
橙子さんがニヤニヤと見物していても幹也が頭を抱えていても止まらない。
式の無関心げな表情がムカつき、私は加速度的にヒートアップする。


私、何やってるんだか・・・。
私の中の理性的な部分がわずかにそんなことを考えていた。

○月△日
若手芸術家を対象とした展覧会が開かれるらしい。
橙子師も出展したのだが、そのためにオープニングレセプションとかに出席せざるを得なくなったらしい。
それで「黒桐を連れて行くんだが、私は諸般の已むに已まれぬ事情で挨拶回りをせねばならん。
その間黒桐は話し相手がいなくて暇だろうなあ。
あ、食べる物はバイキング形式ででるぞ」などとあからさまなことをいうものだから、怪しみながらもつい乗ってしまった。
その結果がコレである。
どう言い包めたのか式も来ていた。
更に橙子師はその日朝から(多分意図的に)不穏当な発言を延々繰り返しており、
余計な波風を立てることを恐れた幹也は断固として挨拶回りに着いていった。
そして私は式と一緒に会場の隅で自分の皿にチンジャオロースなどを盛り付けているという訳だ。
なるほど「どうせ苦行(挨拶回り)をせねばならないのなら、その間お前達も安穏とさせてやるものか」ということらしい。
・・・女狐め。
それは式も気付いていたらしく、
「オレ、前から思ってた。トウコって・・・」
で始まる、珍しく長いセリフをしゃべっていた。
現状、共通の被害者意識により一時的に冷戦状態が緩和され、デタントとあいなっている。
特に喜ばしいことでは無いが。
一通りの悪態をつき終わると、私と式は自分の皿にローストビーフや鴨肉を盛り付けた。なにしろ後は飲んで食べるしかない。
周囲には一応出展された『作品』も並んでいるのだが、どれも冗談のようなセンスで出来ていて、芸術品とは呼びたくない。
中でも一番技術的、構図的、芸術的に優れている作品が一番冗談の様だった。

蒼崎橙子 作『アタック オブ ザ キラー パンプキン』

内容的には7人のかぼちゃ頭が一人の騎士をボコっているところ、としか言い得ない。
当人は「ガチャポンにSDガンダムのマスターグレードプラモを入れた様な物」と皮肉気に言っていたが、
私には意味が良く解らなかった。
・・・まあ、これ以上深くは考えまい。
私の健啖な胃袋がローストビーフの山を順調に消化し、
ワイングラスが二つ空になった頃明後日の方を向いていた式が微かに顔を顰めた。
何気なく式の視線を追ってみると、遠くで幹也が女性(まあそれなりに美人だとは思う)と談笑しているのが見えた。
・・・女狐もいる様だがそれはこの際どうでもいい。
問題は幹也が女と喋っている事、そして式がそれを気にしている事だ。
「気になるの?」
「気にならないのか?」
問いを問いで返された。
正直言うと実は気になる。でも式が気にしている様なので、あえて余裕ぶって澄まして答えた。
この間子供っぽいところを晒したばかりだし、ね。
「ええ、幹也だって女性と話位するでしょう。いちいち気にしてられないわよ。それに浮気くらいしてくれた方が私には都合良いもの。
式と他の女と、どちらから奪うのが楽かを考えれば二人や三人は紹介したいくらいね」
そう言ってなるべく優雅に見える様に意識してワイングラスを傾ける。咽喉を流れ落ちる感触が心地よい。
自分で言っておいてなんだが、幹也が本当に他の女に走って式を捨てたりしたら、
私は驚くだけではなく幹也を非難するのではないだろううか。自分でさっさと手を切れと言い続けてきたにも関わらず、だ。
私はその程度の女をライバルにした覚えはない。
我ながら矛盾したこと言ってるなあ。
そんなことを考えながら更にグラスを傾けていると、ぽつりと式が言った。
「あ、キスした」
瞬間、私はブンッと音が出るくらいの速さで振り向いていた。
さっきと同じ距離で話している幹也と女が見えた。
・・・謀られた。そう気付いたときには更にワインが気管に流れ込んでいた。
「式!」
思いっきりムセながら睨みつける。式はこちらに背中をむけ、口を抑えて肩を震わせていた。


やっぱり私はこいつが大っキライだ。

○月□日
事務所に顔を出すと、式が一人でつまらなさそうにソファに座っていた。
幹也と橙子師について、式に尋ねるのも癪だったので、向かいのソファに黙って座った。
こんな時、式は用がなければ話しかけてきたりしないので、大抵沈黙のうちに時間が過ぎる事になる。
あるいは私の方が何かちょっかいをかけるかだ。
今日もその口かな、と思っていると式の方から声を掛けて来た。今日の式は私に用があったらしい。私は式の声に耳を傾けた。


「兄さん、式は料理出来ないんですか?」
郵便局から帰ってきた幹也に、私は聞いてみた。
一通り式の話を聞いてみて、そう結論づけたのだ。
ちなみに式は私が料理できないと知るとさっさと帰ってしまった。
橙子師は昨日徹夜したらしく、ずっと部屋から出てこないのだとか。
まあ式も料理できないのならこれに関してはイーブン、などと思っていたのだが幹也はあっさりと私の思惑を覆してくれた。
「いや、できるよ。和食に関しては鉄人級だね」
なんて、こと。
かなりのショックを受けながら、それでも一応確認してみる。
「それは全てにおいて、ですか?式のことだから刺身とか包丁関係だけじゃなくて?」
「いつだったかおかゆで橙子さんを唸らせてたけど」
間違いないようだ。私はそう確信した。
こんなことで遅れを取るくらいなら、橙子師に弟子入りするよりも家で母親に料理を習うべきだったかもしれない。
いや、今からでも遅くない・・・
そこまで考えてふと思い当たった。それではひとつ疑問点が出来てしまうのだ。
「じゃあなんで私に味噌汁の作り方なんか聞いたんですか、式は。それに兄さんに夕食を作らせたとも聞きましたよ?」
そう、式はそんなうらやましい事も言ったのだ。
その時のメニューについて細かく説明し、それが家でよく出るメニューなのか質問された。
どのみち一年のほとんどを礼園の寮で過ごす私には答えようの無いことだったのだが。
「うーん、味噌汁は家によって味も具も違うからじゃないかな。僕が作ったのも家の味が知りたいって式が言ったからだし」
なんで知りたいんだろうね、などと幹也は首を捻っている。
我が兄ながら、どうしてこう・・・
「・・・黒桐家の台所に立つ意思があると言う事じゃないんですか」
言ってから言わなきゃ良かった、と後悔した。
幹也は言われて初めて思い当たったらしく、
「え」
と声をあげた後、いきなり辺りをキョトキョトと見回し、挙句の果てに真っ赤な顔でそうなの?と私に聞いてきた。
「知りません!」
はねつけて、私は思考に沈む。
式は料理が出来る。それは悔しいが認めねばならない。
想像してみる。

式は着物だからエプロンよりも割烹着だろうか。
朝、目を覚ましてダイニングへ行くと割烹着姿の式が味噌汁を煮ている。
おはようと朝のあいさつを交わして自分の席に付く。
トントンと響く包丁の音を聞きながら式の後姿を眺めていると、ほどなくして茶碗,味噌汁,焼き魚,漬物等が目の前に並ぶ。
どれも美味しそうだ。
いただきますと言って味噌汁を手に取る。
一口飲んでから「うん、今日もおいしいね」というと、普段無表情な式が一瞬嬉しそうな顔をした後赤面し
「ばか」と言ってうつむいてしまう・・・

・・・破壊力は絶大だ。幹也は一発で落ちる。それは断言できる。
断固阻止せねばならない。
毎朝幹也に「君の作る味噌汁は最高だよ」と言われるのは私でなければならないのだ。式はもっと別の誰かに、そう例えば・・・
「あのー鮮花、さん?」
幹也が声を掛けるのにも気付かず、私は思考に没頭していた。


ずっと幹也と二人っきりだったのになんで式の事なんか考え込んでいたんだ。
そう思ったのは寝ぼけ顔の橙子さんが起きだしてきた後のことだった。

○月○日
この日橙子師は展示会場の下見とやらでお昼ごろに出て行ったらしい。
幹也は着いていくと言ったそうだが、大した事じゃないからと言い張り、結局一人で出かけていったそうだ。
「兄さん、それはどこかで無駄遣いしてくるつもりです」
「やっぱりそう思うか?」
幹也と私は顔を見合わせてため息をついた。式は我関せずとほうじ茶を啜っている。
そうこうしていると事務所に来客があった。
「おや、どうしたんですか秋隆さん」
「ちょっと用事で近くまで来ましたもので」
来客は幹也の知り合いだったらしい。その『秋隆』という来客は「これを蒼崎様に」と菓子折りを幹也に渡していた。
「秋隆?」
「お久しぶりで御座います、お嬢様」
秋隆氏は式とも知り合いらしい。
幹也はコーヒーを淹れに行ってしまったので、式に紹介を求める。今の状態では私だけ彼がどんな人なのか解らない。
式が彼を紹介してくれた。
「秋隆だ」
「秋隆でございます」
・・・役に立たないことこの上なかったが。
「黒桐幹也の妹の鮮花です」
一応こちらも礼を返しておく。
その時ようやく幹也がコーヒーカップをトレイに乗せて戻ってきた。
「秋隆さんは両義家に仕えている人で、式の世話をずっとしてきた人なんだ。時々お茶目が過ぎる謎の人だけどいい人だよ」
「は?」
幹也はさも当然そうに不思議な事を言った。
そしてこちらも「いやあ照れますな」などと平然としている当人に向き直った。
「今日は式の顔を見に来たんでしょう?」
「いえ、この近くに用事がありましたのでそのついでに」
「そういう人は自宅から高価な菓子折りを持ってきたりしませんよ。どうでも良い用事をわざわざ作って来ましたね」
「ははあ、ばれましたか」
ごく自然な会話を交わしている。
謎の人云々は聞き間違いだったのだろうか。
「鮮花、考えない方がいい」
式が珍しく忠告してくれた。
まあいいか、変な人なら観察していれば解るだろう。
それから全員でソファに陣取って談笑した。
秋隆さんは結構気さくで人当たりのいい人だと思った。
それだけに『時々お茶目が過ぎる謎の人』の意味は解らなかったが。

三十分ほどして、幹也はちょっと銀行へ行って来ると出て行った。
「それでは私もそろそろお暇を」
と秋隆さんも帰ろうとする。
見送りに玄関へ出る途中で、ふと好奇心が湧いた。
「秋隆さんは式のこと良く知ってるんですよね」
「ええ、お嬢様のことで知らない事は御座いません」
「鮮花」
式が私を呼ぶ。恐らく詮索するなと言う事だろう。
構わず私は尋ねた。まあ、軽くジャブでも。
「式は幹也とどこまで進んでいるんでしょうか?」
「鮮花!」
かなり焦った緊迫した式の声。様子見のジャブのつもりだった私は、予想以上の反応に困惑した。どういうこと?
しかし、考えがまとまるより早く、秋隆さんが動き出した。
「フフフフフフフフフフフフフフフフフフ」
「あ、秋隆さん?」
「フフフフフフフフフフフフフフ、鮮花様」
「は、はい?」
「ではご覧下さい!」
そういって秋隆さんはスーツの内ポケットからバッと大きな布を引っ張りだした。
それはどうやってスーツの中に収まっていたのか、真っ白なシーツだった。
大きな白いシーツが秋隆さんの手の動きに従ってブワっと広がって・・・あ、真ん中辺りに赤茶色い染みが・・・

ズパッ

目にも留まらぬ速さでシーツは細切れになった。
そしてハアハアと肩で息をする式の手にはナイフが握られている。
手に力が入り過ぎているのか、ナイフがぶるぶると震えているのがよく解る。
現在、式は非常にテンパっていた。
だというのに秋隆さんはそんな式など見えていないかのように、
「フフフフフ、今のはレプリカで御座います。本物はこちらに!」
と内ポケットからもう一枚シーツを引っ張り出した。
それは秋隆さんに操られてさっき同様に大きく広がり・・・あ、やっぱり染みが・・・

ズパパッ!

そして同様に細切れになった。
「あ、あ、秋隆ぁ!」
式は最早、涙声で叫んでいた。
それでも秋隆さんは涼しい顔をしている。そして、
「お嬢様、今のは旦那様がワインをこぼされたシーツで御座います。今日はコレをクリーニングに出しに来ました」
などとのたまった。非常に涼しい顔で。
式はなんだかあうあうと声も出せそうに無い。
「・・・レプリカと言うのは?」
「こんなこともあろうかと私が用意いたしました」
平然として言ってのけた。こんな事ってどんなことなんだろうとかどうでも良い事は思い浮かぶが二の句が継げない。
それでも一応聞くだけは聞いた。
「・・・そのシーツと二人に何の関係が?」
秋隆さんは満面に笑みを浮かべて恭しく告げた。
「秘密で御座います」
今度こそ何も言えなかった。
脳みそが空ろになってしまったようだ。
ふふふ、お茶目の過ぎる謎の人か。なるほどな・・・。
秋隆さんが「それでは私はこれで」と言って去ってからも、かなり長い間二人は虚脱したままだった。


とはいえ、いずれ幹也も帰ってくる。いつまでもこうしてはいられない。
私達はのろのろとソファに座りなおした。
「式、その、ああいうシーツに心当たりはある訳ね」
自分でも自然な声だと思う。怒りも憎しみも戸惑いも混ざっていない、唯事実を確認する声。
式は俯いていた顔をついと上げてこちらを見た。
そしてじっと私を見た後、コクッとうなづいて、後は真っ赤になってまた俯いてしまった。
そう、とだけ言って私も俯いた。
式もぐったりしているが、精神的衝撃は私の方が大きい。
そりゃあそうだろう。
そして自分の感情を不思議にも思った。
何故私はこんなにも平静なんだろう、と。
私だって人間だし、恋する乙女だ。嫌な想像をしてしまうことだってあった。
今の私は、今『私が置かれている立場』に置かれることをシュミレートしたどんな結果よりも平静で穏やかだ。
・・・もちろん、あんな告げられ方はシュミレートには無かったのだが、それにしても、だ。私は案外冷静に事態を受け止めている。
無論悔しくないわけではないのだけれど。
ところで一つ気付いた事がある。私は悔しがっている。
その大部分は決定的に幹也を式にとられたからなのだが、ほんの少しそれ以外が混じっているようなのだ。
それが何か、と考えていると、唐突にひらめいた。


― ああ、なるほどな。
私は納得した。

咽喉の内側を冷たい液体が流れ落ちる。
その冷たさは一瞬の後には焼けるような熱さに変わる。
その熱が咽喉を通り過ぎ、内臓に到達する頃には口腔内に液体はすでに無く、舌の上には苦味と酸味とわずかに痺れた様な感覚が残る。
ほう、と熱を帯びた吐息をもらし、更に瓶から液体をグラスに注いだ。
私の嗜好品、ぶどうジュース(発酵済み)だ。今日も私は飲んでいた。
ちらと正面の椅子に目をやるが、そこには誰も座っていない。同室の瀬尾は2杯程飲ませると寝てしまった。
こちらとしても共犯者に余り飲ませると分け前が減ってよろしくない。二日酔いでもされた日には足がつく可能性もある。
さわやかな笑顔で就寝のあいさつを交わし、後は手酌で飲んでいる。
ただ、一人で飲んでいると頭をもたげてくるものがある。
私は酔っている。
そういう自覚はある。といってもお酒に酔っているわけではない。それはいつも私のなかにある。
私は夢想する。
幹也が、最愛の人が私だけを見て微笑んでいる。
幹也は私に向かって軽く手を広げ、「おいで、鮮花」と私の名前を呼んでくれる。
私は幹也の胸に身体ごと飛び込んで、手をそっとその背中に回して抱きしめる。
我ながら白く細い指先の左手で。
そして右手は ―

― 式を抱きしめるのだ。
そう、私の夢のなかで、私の右手は式をぎゅっと抱きしめるのだ。
だってそうでしょう?
私は幹也を式に取られたと悔しがる一方で式を幹也に取られたと悔しがっていたのだから。
式が可愛すぎるのがいけないのだ!式の作った味噌汁を毎朝飲むのは私だ!!幹也も式も二人とも私のものだぁぁぁっ!!!(断言)

二人をあーしてこーしてそんでもって・・・

私は夢に酔う。
このピンク色をした夢に酔っている。この心地よい桃色の夢に。我が異常なる愛の為に!
無論現実は厳しい。元々滅茶苦茶高かったハードルが倍率ドン更に倍と言う感じだ。
そんなことわかっている。わかっていてなお、この夢は私にまとわりついて離れず、私を酔わせるのだ。
なにしろ前のと比べて楽しいことこの上無いからな!この夢は!
倫理など知ったことか。全力で驀進するのみ。
「よーし、やるぞー!」
私は元気良く叫んで片手を腰に当て、グラスの中の焼ける液体を飲み干した。


あー美味い。


その夜、私は眠れなかった。

いや、深夜の礼園寮で叫んじゃったからシスターが来ちゃって。
見事に飲酒がばれましたとさ。てへ。

ちなみに共犯者の瀬尾は今、私の隣で半べそ掻いて正座させられている。
簀巻きの私共々朝までこのままのようだ。

あとがき
注)演出上の都合により未成年が飲酒しておりますが、良い子は真似しないで下さい。

まずはここまでお読みいただき、ありがとう御座います。
如何でしたでしょうか、本作『鮮花の異常な愛情 ―または私はいかにして嫉妬することを止め、二人を愛するようになったか― 』は。
・・・え?タイトルが違う?いえいえ邦訳はこれで正しいですよ。どちらかと言うと名誤訳の結果ですが、本家本元は。
ええ、見たことなくても聞いたことはあるに違いないアレです。古典的名作です。・・・いや、内容は全然ちがいますが。

さて今回、話が進むに従って作者がノリノリに成っていったため(特に秋隆さん)ドンドンとシリアス度が下がって行きますが、
一応出だしは実験的にシリアスっぽくしてみたつもりです。
今後の為に「一瞬シリアスかと思った」という方も「馬鹿メ、一瞬で見抜いたわ」という方もご感想など頂けると幸いです。
・・・前者はいないかも・・・
もちろん「え、シリアスな所なんてあったっけ?」という方もご感想を。

それではありがとうございました。

・・・あーこれですか?アレに対するリスペクトの表れ・・・じゃ駄目ですかね・・・