邂逅。「空の境界SS」

1.

その路地を支配する闇は、月の光に蝕まれ、その密度を減らしていた。
女の体から流れ出る血が鮮やかな赤色に見えるのは、そのためでもあるのだろう。

自らの手で殺めた女の骸を見下す荒耶の瞳は、
足元に広がっていく血溜りを目に映して、ほんの僅かに赤色に染まる。

無意味な沈黙のあと、黒衣の魔術師はその視線を足元から正面へと移す。

哀れな亡骸と、それが作りなす血溜りの向こう。
奇妙なほど赤い満月を背にして、少年の影が起立していた。

そう、相手は少年。まだ、成人もしていないはずだった。

「何故、見殺しにした」

その表情は、影になり常人なら窺い知ることは難しい。
だが、荒耶にとって、暗闇でモノのカタチを捕らえることなど造作も無い。

「それは、その女性のことですか。それとも貴方が殺めた別の誰かのことですか」
答える声は悲哀に満ちてはいたが、それでも、その少年は―――笑っていた。

「この女のことだ。貴様ならば、阻止する事も容易かろう。統一言語師」

「・・・その名で呼ばれたのは、久しぶりですね」
薄い笑いを貼り付けたまま、少年は頷いた。

「あなたとは、お会いしたことは無かったと思いますが」

「私は魔術師、荒耶宗蓮。お前と見えるのはこれが初めてだ。
 今はロンドンの学院に身を置いている」
学院、という言葉に、少年は困ったように眉根を寄せた。

「これは、困りましたね。私を封印しに来られた、ということでしょうか」
「奇跡の保存になど、興味は無い」


「それでは―――」
「見定めさせて貰おうか」
何の用かと続くはずの少年の言葉を、荒耶宗蓮の短い宣告と、地面の爆ぜる音とが遮った。

闇夜の中でなお昏い魔術師の影が、真っ直ぐに少年に向かい、疾る。

「―――!」
破滅的な黒の疾走を、白い―――いや、色の無い魔術師は大きく後ろに跳び、避ける。
ほぼ同時に、眼前の空間を、まるで鉄の塊のように握り締められた荒耶の拳が凪ぎ、抉り取っていった。

その事実に少年―――玄霧皐月は苦い思いで、口の端を僅かに吊り上げた。

―――威嚇、か。

今の一撃は明らかに、彼を仕留めることを意図して放たれたものではない。
しかし、別段威力を抑えた一撃でもなかった。

力を見せなければ次は当てるつもりだろう。
稚拙といえば稚拙な脅し。陳腐といえば、陳腐な方法だが―――その分、効果的ではある。

軽い賞賛と、哀れみをこめて、玄霧は言葉を紡ぎ、語る。

彼だけが操ることのできる神代の言語。
語る対象は世界。

決して、返事をしてはくれない世界だけが、彼の言語を理解する。

【あなた」「には」「進めない】


刹那。

滑稽なほど、容易く、黒い魔術師の暴威が停止する。


荒耶の両足が、荒耶の意志を完全に無視して動くことを止めたのだ。

感覚が無くなったわけではない。力は入る。
筋肉を脈動させることも、できる。おそらく、後ろに跳躍することもできるだろう。

ただ、前に足を踏み出すことだけが、叶わない。
かの魔術師が吐き出したその言葉の通りに、進むことだけが、叶わない。


これが。


「統一言語―――か」
「満足しましたか」


「――――――――」
声を上げず、―――荒耶宗蓮は咆哮した。

それは、荒耶宗蓮という卑小な一個人と世界との綱引き。
勝敗は火を見るより明らかである。

しかし。

ズッ―――――。


「―――ほう」

ズッ―――――。

それは、足が地面を擦り取る音。
大地をほんの僅かに削り取りながら、荒耶宗蓮の足は前に『進んだ』。

「これは――――凄い」

玄霧皐月の言葉は、世界に存在する荒耶宗蓮というモノに対して働きかける術である。
根源と繋がる彼の言葉と同格の神秘を用いなければ、その言葉に逆らうことは極めて難しい。

だが、では。目の前の光景は何だ。

荒耶宗蓮と名乗った魔術師、いや、人間は。

ただ、意志の力だけで、その個人という意志の力だけで
自己の上位―――世界というに存在する荒耶宗蓮に対して抗いつづけている。

それは、なんと言う意志の力か。

世界に存在するを拒絶することさえ、厭わない意志。

自ら考える力、自らの意志をもたない玄霧皐月にとって
目の前の光景はそれこそ神秘の具現であった。

―――何者だろう、この魔術師は。


玄霧皐月は、声の無い咆哮を続ける荒耶宗蓮に微笑むと。


記録の採集を開始した。


2.

どのくらいの時間が経過したのか。

玄霧は赤い満月を振り仰ぐ。
位置から判断して、一時間ほどか。

彼にしては、記録の採集に時間を要してしまった。

それは、無理も無いことでは会った。

あれから2度の統一言語による催眠を受けて、なおも世界に抗し続ける眼前の魔術師。
その歩みは、玄霧の予想より遥かに長く、
そこに敷き詰められている記録の残滓はあまりに多く、凄惨なものであったのだから。

顔に張り付いた笑みを薄くして、統一言語師は、ぱちん、と指を鳴らした。

それ自体には何の意味も無い。
ただ、幕を下ろす合図に過ぎない。


ガリ。

一際、大きな音をたて荒耶宗蓮の靴底が、大地を大きく抉り取る。
しかし、無様にたたらを踏むことも無く、黒い魔術師は次の瞬間には静かに咆哮を止めた。

おそらくは全身に拭い様の無い疲労を抱えているのだろうが、深く刻まれた苦悩の表情は
最初から微動だにしていない。

ただ、瞳の色だけが僅かに揺れて、自らを呪うかのような響きの言葉が漏れこぼれた。

「―――未熟。未だ、世界には抗し得ぬか」
「お見事です。ここまで抵抗できる存在は私の知りうる記録の中でも10に満たない」
皐月の言葉に、荒耶の眉間の皺が一層深く刻まれる。

「つまりは、神代の言語と言えど、破る術はある、ということか」
その口調に含まれているのは、微かな失望。
答える玄霧の顔には、穏やかな笑みが人形を思わせるカタチで張り付いていた。

「神代の言葉といえど、所詮は、魔術です。
 魔法ではない限り、万能足りえるわけではないですから」
「では、やはりこれでは――――抑止力に抗することは、出来ぬか」
「出来ません」
一度断言してから、やや言い訳するように玄霧は言葉を続けた。

「根源に繋がる力という意味においては同格ですが―――、扱うのが魔術師であるかぎり、
 アレに抗することは出来ないでしょうね」

そう、目の前の魔術師は何度となく「抑止力」と呼ばれる存在に挑んでいる。

もし、抑止力の打倒が叶うのであれば、それは紛う事なき、偉業である。
だが、決して叶うことの無いその試みは、やはり愚行と称されるべきかもしれない。

―――目の前の魔術師にとっては、どちらでも関係の無いことではあろうが。


抑止力を打倒し得ない限り、荒耶にとって統一言語といえども価値のあるものではない。
しかし、それでも台密の僧であった魔術師は、その昏い視線を玄霧に向ける。

「ゴド―ワード。統一言語を私が習得することは叶うか」
「叶いません」
やはり、玄霧は断言した。かの魔術師が望むのは、簡潔で明瞭な結論なのだから。

「あなたには、才能が無い」
微笑んだまま、統一言語師は荒耶宗蓮の選択肢を断ち切っていく。

「そうか」
宣告にさしたる動揺も落胆もみせず、ただ、苦渋の表情のまま荒耶宗蓮は頷いた。
その視線が、血を吸い込んで濡れる大地に落とされる。

それに合わせて、玄霧の瞼が揺れて閉じられた。それは、死者に捧げる黙祷のように。


「―――私の力を見るために、そこの女性を殺害したというわけですか」
沈痛な響きを帯びた少年の声に、無造作に首を縦に振る魔術師。

軽く嘆息して、玄霧は生徒に諭す教師のような口調と視線を荒耶に向けた。

「そのような用件であるならば、この人を殺める必要などありはしないでしょう」
「確かに殺める必要などはないな。
 だが、その女にお前を殺させる訳にはいかなかった」

荒耶宗蓮は女性の手に握られた血に塗れた白刃に目を落として言った。

そう、彼は少年に告げる。
これは、本来、お前に向けられる刃であった、と。

しかし、その言葉とおそらくは事実に対して、玄霧の顔に浮かんだのは苦笑に過ぎなかった。
自らが命を狙われていた、というその宣告は、彼にとってなんら動揺をもたらすものではなかったから。

「よく私のことを調べておられるようですね。人間関係まで」
ただ、その事実にのみ、少年の感情の破片が覗く。


「なるほど。つまり、私はあなたに命を救われた、というわけですか。
 感謝しなくてはいけないのでしょうね」
「その女の刃が向けられても、お前はそのまま死を受け入れたのか。
 偽神の書」
「それが、彼女の望みなら。でも、気付けば抵抗はしたでしょうね。
 ・・・私は、人間ですから」
人は死に抗うものでしょう? 力なく、玄霧は嗤った。

「死を恐れる気持ちはないか」
「未来の無いモノは、死を恐れる気持ちなど持ちませんよ。荒耶」
ふむ。
若すぎる魔術師の返答に、荒耶は顎に手を当て頷いた。
その瞳に、僅かながら好奇の色が滲み出る。

「では、お前は何も望まないというわけか」
「ええ、私は何も望まない――――ただ、解決する手段が欲しい」
「何を解決する術を望むというのだ」
「・・・人の汚さを」
ふむ。
再び、魔術師が唸りを上げ、いぶかしむ。

「・・・お前の目的は永遠だ、と聴いていたが。誤った伝聞に過ぎぬか」
「いいえ。私はエイエンを求めています。でも―――」

言葉を切って、玄霧は大地に視線を落とす。血で穢れた大地に。

「・・・永遠を残すためには、あまりに―――汚すぎますから」
「それが、忘却を録音する理由か」
魔術師の眉間に、更に皺がよる。

「効率的ではないな」
ええ、と玄霧皐月は、認める。

「でも、私にできるのはただ、それだけですから」
ふむ。
三度、荒耶は頷いて、昏い、しかし苛烈すぎる意志の視線で玄霧を見据えた。

「ならば、私に力を貸せ」
「あなたに、ですか」
「私は、結論に達した。私は根源に触れ、全てを消却する。それこそが、穢れをはらう唯一の方法である」
断言する魔術師に、怪物と称された少年は、微笑を浮かべたまま首を横に振った。

「無駄ですよ。根源に触れることなどできはしないのですから」
「結論を得た、といったはずだ。先刻、私の記録を採集したのではないのか」
「お見通しでしたか」
荒耶の指摘に、困ったような笑みを玄霧は浮かべた。
しかし、その表情は一瞬で消えた。

そう、あらゆる表情が消えた空っぽの表情。
それが、玄霧皐月の本質であることを、荒耶宗蓮には見抜いていた。

そう、これがマスター・オブ・ゴド―ワード。魔法使いに、最も近いと呼ばれる神秘。

しかし、空の人形が紡ぎ出す声はそれでも穏やかではあった。

「返すべき永遠がない人物には初めてお会いしました。荒耶」
「返すべき、永遠―――か」
「そう、人は誰しも、自らの記録を記憶に貶めて、挙句に欠落させてしまう。
 その罪から、その汚れから自らを護るためにね。
 だが、荒耶。あなたにはその欠落が、ない」

僅かに目を細めて、玄霧は目の前の魔術師の記録を探る。

「あなたは人の生と死と、その先にあったはずの生の残滓を悉く蒐集している。
 しかし、そのあなたでさえ、自身の死だけは観測できはしない。
 観測者は自分自身の観測対象とはなり得ないし、それはあなたも例外ではない」

荒耶宗蓮という膨大な辞書の頁をめくり終わり、玄霧皐月はその辞書を閉じる。

「それなのに、貴方は自身の記録を何一つ、取りこぼしてはいないのですね。
 賞賛に値しますが―――とても、無意味でもあります」
「無意味であることには、慣れている。
 行為が無意味であろうと、愚行であろうと――――無為であることより、私には耐えられる」

だから、私は進むのだ。
声に出さずに魔術師は断じた。

「うらやましいと、少し思いますよ。荒耶宗蓮。
 どれだけ狂気と矛盾に満ちていたとしても。貴方の意志だけは、本物でしょうから」

辛辣な玄霧の言葉に、しかし、荒耶は微塵の同様も顕しはしない。
その態度に、再び、笑みの表情を張り付かせた玄霧は、静かに首を振った。

「いいでしょう。あなたの試みには興味がある。
 もし、その器が見つかったのならば、私の力をお貸ししましょう」

ゴド―ワードの承諾に、荒耶は一つ頷くと、そのまま踵を返そうとした。
その背に向けて、問いが投げられる。


「根源に触れ、すべてを消し去って。その果てに、あなたは何を望むのです。荒耶」


それは、何度となく荒耶に投げかけられた問い。
だから、返されるのは何度となく、投げ返された答えに過ぎない。

「私は何も望まない。ただ、結論が欲しい。それこそが、唯一。共通の救済である」
「何から何を救うための救済ですか」


「生きたいと思う心が、生きようとする祈りを汚す。
 その祈りを、下衆どもから救う。それが、それこそが、私の―――結論である」


最後に、そう、吐き捨てて。


黒い魔術師は、闇夜の中に、消えていった。

「生きたいと思う心が、生きようとする祈りを汚す――――ですか」
闇に消えた魔術師の背中に、玄霧皐月の虚ろな言葉で繰り返す。


「救いたいと思う心が、救われたいという祈りを汚す。
 それこそが、あなたに相応しい言葉なのかも知れませんね―――荒耶宗蓮」

誰よりも、汚く愚かなのは、他でもない私たち自身なのかも知れない。
だけれども、私たちは自分でそれに気付くことはない。

「――――観測者は、自分自身を観測対象とはなし得ない、ですか」

その言葉は風に吹き散らされて、おそらくは誰の耳にも届かない。
ただ、その言葉の記録が、世界という辞書に刻みつけられただけ。

「さようなら。血塗れの僧侶。
 あなたの結論は、私の望む結論とは違いますが―――それでも、成就することを祈りましょう。

 かつて護ろうとしたものの残骸を道に敷き詰めて、その先に、
 地獄しかないこと知りながらも進む魔術師よ」


感情の無い人形の感情の無い声で、紡ぎ出す祈り。

―――それは、呪いのように闇に融けて、消えた。

ある学院で教鞭をとる、玄霧皐月の前に。
寸分たがわぬ姿で、荒耶宗蓮が姿を現したのは、この邂逅から、さらに数年後のことになる。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
須啓です。
ハロウィンのSSに目処がついたのでかなり突発的に、こんなん書いてみました。
荒耶と玄霧の出会いって、被りそうで怖かったんですけれど、誰もまだ書いていないので
今のうちに―――という感じで(笑。

しかし、まあ、この二人の会話は、難しいなあ、と。
なにか、原作と矛盾したこと書いているかと思うのですが、多めに見ていただければ幸いです。

しかし、書いていて楽しかったんですが・・・読み返してみると内容がないなあ。
いつものことですが、やっぱりシリアスは難しいのです(苦笑。

さて、なんとか投稿規定数に達したので、主催の面目をなんとか、かろうじて保てたでしょうか(笑。

では、最後に10月31日の夜に、お会いできることを楽しみに。

メールやBBSでご感想を頂けると大変、嬉しいですのでよろしくお願いいたします。

2002年10月27日。 須啓。


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