『一番強い魔法』

 作:しにを


 ゆっくりと目が開いた。
 式は目覚め、僅かに訝しげな顔をして、そしてああ、と何かに気づいた顔を
した。
 いつもと違う、しかし見覚えのある天井、壁……、部屋の様子。
 目に入るモノを消化しえぬ戸惑い。
 しかし覚醒と共に、そこが何処であるかを思い出す。

 そうか、ここは……。

 僅かな安堵と共に、式は体を動かし掛け、ぴたりと動きを止めた。
 さっきよりも動揺を滲ませた顔をしている。
 黙ってそろりと右腕を布団から出し、顔の前で動かしてみる。
 ああ、と声を洩らし、わずかに顔を顰めた。

 体の節々にある違和感。
 痛みにも少し似た通常の感覚とのズレ。
 痺れ、鈍痛、疲労、いずれとも似て非なる……、あるいはそのどれもが合わ
さっているのかもしれない。

 事象の的確な認知はともかく、原因については察しがつく。
 普段使わない筋肉を使い、なじみの無い体の動かし方をして、捻り曲げた結
果が、この違和感。
 そして、何故にそんな真似をしたかと言うと……。
 思い出すとそれが甘やかな感覚に変わりそうで、式は頭を振る。

 そして、左方に視線を向けた、――否応無しに思い出されたものを求めて。
 すぐそばにある筈の顔を。

 すぐそば、そう少し動けば触れる事の出来る至近距離。
 そこにある顔。
 まだ、眠りから覚めぬ寝顔。
 少し斜め上に位置するそれ、幹也の寝顔を、式はしばし眺めた。

 善人は寝顔が安らかだと言う。
 ならば、この男は、幹也は?
 なんだか、素直に認めるのが癪に障る。
 
「自分だけ気持ちよさそうに眠っていて」
 
 八つ当たりのような言葉。
 別段、目が覚めたのは幹也のせいではない。
 必ずしも体の不調は目覚めの原因となってはいないのだから。
 いつものように、目覚めるべき時間に式の体が自然と覚醒しただけ。 

 それでも、式は小声で文句を言った。
 体の節々が痛い。
 よくわからないけど、裂傷か擦傷が残っている。
 人をこんなにして、幹也は……。

 しかし非難はしても、それは幹也を起こさない程度の小さい低い声に留まる。
 そして幹也を見る式の顔も、その言葉にそぐわない表情に変わる。

 いつしか口を閉じ、黙って幹也の顔を眺めていた。

 何をしているのだろう?
 不思議だな、と式は思う。
 そして、不思議だと感じている自分に驚く。

 生まれてより、およそ普通ではない人生を送っていた。
 誰よりも近しい存在であった織を失い、一人でこの世界に取り残されてから
はよりいっそう、尋常ならざるものと近しくなった。

 しかし、それらを不思議なものと驚きを覚えた事はほとんどない。
 寒気のする様な異常現象も。
 圧倒的な存在感を持つ怪異も。
 そしておとぎ話の中だけの存在と思っていた、魔術師だの魔法使いだのとい
った類い。

 いや、これは些少の驚きはあったか?
 でも今では、毎日のように顔を合わせているからな。
 トウコの顔と、幹也の妹の顔をちらと思い起こす。

 しかし、出合った当時から決して驚異と感じた事はないな、と式は呟く。

 精巧な人と見紛う人形を作り、手から炎を発する。
 必要とあれば空を飛んだりもするのだろう。
 それは凄いとは思う。
 しかし同時に、だからどうしたという気持ちもある。

 実際に、目つきの悪い魔術師にそう言った事がある。
 火をつけたければライターでも使うし、急ぐなら車や飛行機に乗ると。
 その時、どう言葉を返されただろうか、と式は少し眉に皺を寄せた。
 そうだ、トウコは真顔で、その通りだと呟いて、ライターを使って煙草に火
を点けてみせたな。
 それから、そういうものだ、と自嘲するように笑って、少し考えて同じ目的
地に行くのでも方法をどうするかは好みの問題だろうと言っていた。

 その時だっただろうか。
 おまえ自身が魔術的存在なのだがな、と面白げに言われたのは。
 直死の魔眼かと答えると、いやそれだけではないと呟いて。
 あれは、荒耶の件の前だっただろうか……。

 ともあれ、私はそういうものにさして興味は惹かれない。
 すき好んで外国まで修行に行く熱意も、回りくどい目的の為にその魔術師に
弟子入りする気持ちも、私には理解できない。
 トウコ達が何をしようと、さして驚きはしない。
 式はそう呟いた。

 でも、幹也の顔を見ていると、その言葉を聞いていると、思いも掛けぬ感情
が生まれる。
 これは、不思議だ。
 時に新鮮な驚きすら覚える。
 今だって、太平楽な顔を見ていたら、怒る気力が根こそぎ消えてしまった。
 自分でも理由はわからない。

 だいたい、今だって目を覚ましたのに、どうしてこんなに怠惰に寝転んでい
るのだろう。
  やる事はあるのに。
 だから、幹也の部屋に泊まったというのに。
 たまにはきちんとした朝食というものを食べさせてあげよう、そう思って。

 だから、さっさと起きて支度をしないといけないのに。
 本当に、なんでごろごろしているのだろう。
 そう思いながらも式の頭は答えを出さず、別の思念を浮かべる。

 朝ご飯。
 幹也は普通の朝ご飯でいいよ、と言っていたけど、その普通の朝ご飯という
ものがよくわからない……。
 和食なんだろうか、それとも焼き立てのトーストとコーヒー?
 幹也はどちらが好きなんだろう。

 迷った末に、式は自分の好みにした。
 卵焼きは柔らかめにして、葛を溶いた汁をかける。
 脂の乗った鮭の切り身は時間に気をつけて最高の焼け具合にする。
 糠床を今から作るわけにはいかないから、一夜漬け。
 ほうれん草のおひたし。
 サヤインゲンはどうしようかな。
 海苔も食べる直前に炙ってぱりっとしたところを食べてもらう。
 お鍋には水を張って煮干を沈めてダシを取っている。
 ご飯を炊く用意も済ませた。

 貧相かな。
 こんなのじゃ、幹也はがっかりするだろうか。              
                                    
 
 普段どんな朝ご飯を食べているんだろう。
 食べている暇がなかったとか言っている姿や、「朝くらい食べられる生活を
保証して下さい、橙子さん」と溜息をついて事務所でコーヒーを淹れて何杯も
飲んでいる姿はよく見る。
 けれど、何を食べてきたという話はついぞ聞いた記憶がない。
 昼とか夜は一緒に食べる事もあるけど、外食とかはあまり参考にならないし。
 おとといは、私が何も口にしていないと言ったら、自分の菓子パン一個を半
分こして押し付けて、残りを食べておしまいだったっけ。
 だから、お返しに私は……。

 とめどなく式の中で言葉が溢れる。
 疑問や、その他諸々、雑多な思考のままに。

 もう、いい加減に起きないと。
 どうしようかと考えてから、もう何十分も経っていた。          
   

 幹也を起こすには少し時間が余っているけど……。
 もう起きなければいけないのだけど。
 
 ああ、と式は自覚する。
 やる事を意識していながら迷いが生じていること自体が、既に異常だと。
 起きねばならない。
 ならばもう自分は起き上がっている筈だった。

 何を躊躇っているのだろう? 
 それがこんなに……。
 まるで魔法にでも掛けられたように。

 そうだな、魔法に掛けられたんだ。
 薄く笑みを浮かべた。
 幹也に魔法を掛けられたんだ。

 耳を劈く雷鳴。
 大地を割る鳴動。
 天をも焦がす劫火。
 雲霞の如き土人形の群れ。
 そんな魔法を相手にするのなら、何ら問題は無い。

 ても、この魔法は不回避だ。
 身につけた体術も、降魔の古刀も、直死の魔眼も役には立たない。

 ならば仕方ない。
 私はこうするしかない。

 式は幹也の胸に顔を埋めると、そのまま眼を閉じた。
 少しだけ。
 少しだけこうしたら、起きるから。
 起きたら、朝ご飯を。
 うん、幹也の朝ご飯を作ってあげるから。

 少し言い訳がましく呟いて。
 式は起きている幹也には絶対に見せない顔をして、
 幸せそうな顔をして。 
 眠りについた。


 トウコや鮮花なんか全然目ではない。
 幹也が一番の魔法使いだ。
 少なくとも、私にとっては。

 そんな呟きを残して。

 
  FIN

―――あとがき

 魔術師も魔法使いも出てこないですね。
 ……。
 ルール外れであれば、無印の寄贈作品と言う事で。

 でも式をめろめろにするのが、魔法でなくて何だと言うのです?

 
 しかし、式で書くの三回目ですけど、どうにも式っぽくなりません。
 難しいです。
 ちょっと前に橙子さんで書いた時は、勢いのままに書けたのですけど。
 おまけに何で不得手な分野で書いているのか、自分でもわかりません。

 と、首を捻りつつ。

   by しにを(2002/10/17)


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