無原罪児 god mother.


 私の仕事場に、浅上藤乃が訪ねて来た。既に唯一の社員が帰ってしまった時間だったので、私が直接応対する事にした。
「それで、私に作って欲しいモノとは、何だ?」
 あれから、もう十年経っているのか。藤乃と向かい合った私は、月日の経つのは早い物だと実感していた。
「わたしは、子供が欲しいのです」
 聞けば彼女は、子供が産めない体だという事だ。藤乃は不妊症としか言わなかったが、私には見当がついていた。恐らく、彼女の実父が娘よりも世間体を大事に考えて、薬を使って痛覚を奪った副作用だろう。もしかしたら、まだ見ぬ孫さえも恐れて、始めから子供が産めない身体にもするつもりだったのかもしれない。
「子供が欲しいなら、代理母でも養子でも色々手段があるだろう?」
 それについては、藤乃も手を尽くしていた。しかし、現在の日本の法律は、未婚女性にはとても不都合に出来ているそうだ。
 法律の及ばない手段を求めた藤乃が私を知ったのは、ほんの数日前の事だった。まさか、鮮花が私の弟子だったなど、夢にも思ってないだろう。
「それに、出来ることならこの人に似ている子供が欲しいんです」
 そう言って、彼女は一枚の写真を取り出した。その写真を手に取った私は、出来るだけ期待に添えるように努力するとだけ答えた。

 事務所の窓から、去っていく藤乃が見える。私は、デスクに置かれた写真を再び手に取った。
「もし、黒桐の写真なんぞを見せていたら、有無を言わさず追い払う所だったが……」
 写真の男は、私が全く知らない誰かだった。
「彼女も、流れている時間の中で、立ち止まらずに進んでいたか」
 十年の間、ちゃんと藤乃はためらわずに人と出会い、人に関わって来た。この写真が、その証拠だった。藤乃と写真の男がどういう関係なのか、私は知る必要も無かったので尋ねなかった。
 仕事を引き受けたからには、完遂させる。それだけだ。


 依頼の『物品』が完成したのは『納期』当日だった。別に、作成に手間取ったわけではない。偽造された母子手帳や出生届などの日付に極力合わせようと意図したからだ。
「―――遅い」
 深夜になっても、藤乃は工房に来なかった。明日になったら、嫌でも社員に赤ん坊を抱えている姿を見られてしまう。せめて日付が変わる前に藤乃に子供を押しつけようと、私はベビーカーを押して夜の街へと繰り出した。全額前払いで謝礼を受け取っていなければ、私だってここまでサービスする気にはならなかった。その筈だ。

 いつもの外出着にベビーカーは、ミスマッチもはなはだしかった。だからといって、子連れが似合う格好などもっと嫌だった。昼間だったら、絶対こんな恥ずかしい真似はしない。今だって、気まぐれな式とばったり会わないか不安だった。
「確か、この辺りだったな」
 大きくひしゃげたガードレールで、歩道が狭くなっていてベビーカーが押しづらい。何か事故でもあったのだろうか?
 暗い道だった上にベビーカーに気を取られた私は、何か固いものをハイヒールの土踏まずに挟んでしまった。
「一体何なんだ?」
 挟まっていた物を引き抜こうとすると、妙なゴムみたいな感触が指先に伝わった。何故か興味を持った私は、それを道端に捨てる前に確認してみた。
 それは、哺乳壜の残骸だった。
「何?」
 頭の片隅で、何かが訴えようとしていたが、それが何だか判らなかった私は無視した。
 カツン。
 つま先が、何かを蹴飛ばした。街頭の真下まで転がったそれは、音を立てられない程にひしゃげたガラガラだった。
 また頭の片隅で、何かが点滅した。
「それが、どうした」
 私は、再びそれを無視した。だから、紙オムツの包み紙がボロボロになって足元に落ちていても、見なかった事にした。
「いや、そんな筈はない」
 頭の片隅に浮かんだ予感を、私は否定した。
 しかし、おしゃぶりや小さい縫いぐるみ、メリーゴーランドまで残骸になって転がっているのを見ると、もう根拠の無い否定をする気にはならなかった。
 予感の方が正しい。私には、何故かそれが判った。

 結論から言うと、藤乃は交通事故に遭っていた。酔払い運転によって歩道に飛び出したトラックに、背後から追突されたのだ。
 聞けば彼女は、私に依頼をした日から嬉々として毎日ベビー用品を買い漁っていたらしい。今日は待望の子供に会える日なので、更に色々買い込んでいた。頭の中が子供の事だけで一杯で、トラックに気付かなかったのだ。
 彼女にとっての人生最高の日は、デコレーションケーキと一緒にタイヤの下敷きになってしまったのだった。
 幸いにも、藤乃は生きていた。『納品』は、彼女が退院するまで延期になった。
 問題が、まだ一つあったが。


「と、橙子さん!?」
 出社草々、社員の第一声がこれだった。
「おまえの子か? 橙子」
 こんな日に限って、式まで事務所にふらっと来ていた。二人とも、私が抱えている子供を見て唖然としていた。
 そう、藤乃が退院するまで、誰が子供を養うかという問題が残っていたのだ。ベビーシッターを雇うお金が、私は惜しかった。
「作ったのは私だが、私の子供ではない」
 私は二人に、事情を説明した。
「それじゃあ、こいつは橙子の人形なのか?」
「こいつは成長だってするし、命も心もある。比べるべきオリジナルが無い存在なら、私の人形と人間の違いなど、精々子宮から生まれたか否かだけだ。それすら、試験管ベビーと比べたらあやふやになる」
「でも、橙子さんから見れば、人形なんでしょ?」
「私が作ったんだからな。私の主観は、そこから出られない」
 藤乃の主観は『わたしの子供』につきる。だから、人間という事になるのだろう。
「そこで、黒桐。今日のおまえの仕事は、こいつの世話だ」
「ええっ? どうして僕が?」
「子育てをおまえと秋隆に全部やらせている式に、任せられるか。第一、こいつはうちの工房の作品だ。社員にも、面倒をみる義務がある」
「橙子、虫のいいことを言うな。どうせ昨日まで、報酬を一人締めするつもりで黙っていたんだろう。謝礼はどうした?」
 式に睨まれた私は、赤ん坊を持ったまま自室に入った。そして、小切手を持って部屋から出てきた。式にひったくられた小切手は、そのまま黒桐の手中に納まった。
「急いで換金するんだ」
 生活が掛かっているからか、二人の連携は完璧だった。黒桐は全力疾走出来ないが、式がすかさず私をブロックして行く手を阻む。
「ベビー用品も、買って来てくれ。おむつは、男の子用だ」
 私は、窓を開けて黒桐の背中に向かって叫んだ。すぐに『納品』する予定だったので、あまり持ち合わせが無かったのだ。
「ホギャア!」
 突然、卓上の赤ん坊が泣き出した。
「おい、橙子。……え、と」
「母親を差し置いて、勝手に名前を付けられるか。こいつとでも呼べば良い」
「こいつ、どうしたんだ?」
「一晩こいつに付き合って判った。この泣き方は、おもらしだ」
 おむつ変わりにタオルを持ってくるから、服を脱がせて待っていろと式に言って、私は自室に戻った。
「ひゃあっ」
 ドアの向こうから、式の悲鳴が聞こえた。
「どうだ、驚いたか。あいつは、下半身を裸にされると、開放感からオシッコを噴射するんだ。レマン湖の大噴水のようにな」
 そう言いながら、私は事務所に戻った。
「子育ての経験の有る黒桐なら、こうも上手く騙されなかっただろうな」
 雫を滴らせながら、式は恨めしそうな青眼で私を見た。
「つまり、昨晩の橙子もこうだったわけか」
「私は、ブラウスを台無しにされてしまった」
 帰りに着る服が無いと困ると踏んだのか、式も和服だけは守り通していた。その分、顔面に沢山受けていたようだが。
「シャワーを借りるぞ」
 式が私の部屋に入って行くのと入れ替わりに、黒桐が戻ってきた。
「橙子さん、買って来ましたよ」
 様々なベビー用品を、黒桐は自分の机に並べた。
「使い方を教えますから、聞いて下さい」
「私が使うのか?」
「今晩も、タオルのおむつをはかせてスプーンでミルクをやるんですか?」
「勿論、今晩こいつの世話をするのは……」
「橙子、幹也にやらせようってムシの良い事言うなよな」
 何時の間にか、シャワーを終えた式が背後に立っていた。
「判ったから、目の色を変えるな」
 今夜も赤ん坊の世話をする事になった私は、しょうがないので正しいベビー用品の使い方を黒桐から教わった。


「橙子さん、大丈夫ですか?」
 次の日、出社した黒桐の第一声はこれだった。私は、大丈夫ではない。
「橙子の目の隈って、パンダみたいだな」
 式も、楽しそうな顔でまた事務所に来ていた。
「あいつは、ソファーに寝かしてもベッドに寝かしても、転げ落ちそうになって、気が気でなくって結局床に毛布をひいて並んで寝る羽目になった」
 決めた、ベビーベッドを買おう。藤乃の名義で。
「しかも深夜に何度も泣き出した時、黒桐に相談しようとしても電話が全然繋がらないし……」
「夜中に電話されたらかなわんと思って、電話を殺しておいた」
「式、そんなの受話器を外しとくだけでいいじゃないか」
「あ……」
 こちらの行動は、式に完全に読まれていた。
「おい、式」
「どうした橙子?」
「家に帰ったら、お前も自分で子供の世話をしろ」
「え?」
「いいから、お前もやれっ!」
「あ、ああ」
 私に気圧されて、式が頷いた。
 それでいい。式だけ楽をするのは、許さない。嘆息した私は、ボールペンの尻を噛んだ。
「そういえば橙子、昨日から煙草は吸ってないな」
 そう言って式は、ニヤニヤ笑った。
「商品を傷めたくないだけだ」
 そうだ、こいつは私にとっては『人形』だ。
「そういう事にしてやろうか」
「当然だ」
 私のくわえていたボールペンが、噛み砕かれた。


 それから数日、目まぐるしい日々が続いた。未だに不本意な子育てが続いているが、式の目の周りにも私のような隈が出来ているので、少しは気分がいい。子育ての苦労が、身に染みて判った事だろう。
 たまには子供に外の空気を吸わせた方がいいと黒桐に言われたので、今日はベビーカーを取り出した。意地でも、普段の外出着で出かけることにする。
 公園の池に沿って遊歩道を散歩していると、突然こいつが泣き出した。
「オギャア、オギャア!」
「こ、こら、泣くんじゃない」
 ミルクはやったばかりだし、おもらしもしていない。体調も良さそうだ。一体何で泣いているのか判らないので、必死にあやした。
「ほ、ほら。イナイイナイバー」
 赤ん坊に向かって、両手で顔を隠したり見せたりする姿は、知り合いに見られたくないな。
「と、橙子師? どうしたんですか?」
 何で、鮮花がここにいるんだ!?
「まさか、この赤ちゃん……」
「私が産んだんじゃない!」
「オギャア、オギャア!」
 赤ん坊が、更に大声を上げて泣き出した。こうなったら、ヤケだ。
「ほら、おまえも手伝え」
「え?」
「私と一緒にやるんだっ!」
「は、はい」
 私達は、ベビーカーの前で並んでしゃがんだ。
「イナイイナイバーッ」
「イナイイナイバー。とほほほ、どうしてわたしまで」
 泣きたいのは、私も同じだ。
「イナイイナイバー」
「イナイイナイバー」
 結局、泣き止むまで一時間し続けた。


 今日は、警察からの極秘情報を受け取る手筈になっていたが、待ち合わせの場所に現れた大輔は、私の抱えている赤ん坊を見るなり、泣きながら夕日に向かって走り去ってしまった。
 だから、私の子供じゃないというのに。


 ここ数週間の苦労を振り返って、自分の母親も同じ苦労をしたんだとしみじみ思った。
「だったら、もう一人産もうなんて、思わなきゃ良かったんだ」


 これは、どうした事だろう?
 これだけ大切に育てていたのに、赤ん坊が風邪をひいた。勿論、保険証などこいつには無い。
 今日は日曜日。こんな事もあろうかと、幹也に無理矢理持たせた携帯電話に連絡した。
「橙子さん、赤ちゃんは自分でハナがかめないんです。ですから、橙子さんがハナをすすってやって下さい」
「私がやるのか?」
「早くして下さい。窒息する事だってあるんですよ」
「そ、そうか。それなら……」
 意を決した私は、赤ん坊の鼻に唇をあてた。
 ズ、ズズズズズ。
「よ、橙子」
 突然出現した式が、私の背中をトンと叩いた。
 ゴックン。
 あ!
「飲み込んでしまったじゃないかっ!」
「わ、どうした橙子?」
「いいから式、お前も手伝え! 交代でやるんだ!」
「あ、ああ」
 ズズズズズズ。
「そうそう、その調子だ」
「とほほほほ。どうして俺まで」
 私達は、交代で赤ん坊の鼻をすすった。


 式が、子供をあやしている私をしげしげと眺めた。あの日から、式は毎日事務所に顔を出している。
「なんだかんだ言って、結構馴染んでるじゃないか」
「五月蝿い、式。別に育てたくて育てているんじゃない」
「そう言ってるけど、本当は子供に名前をつけたくてウズウズしているんじゃないのか?」
「そんなこと、あるもんか」
 そうとも、こいつは只の……。

10
 藤乃が、ついに退院した。これで、慌しい日々ともおさらばだ。
 子供を抱えて去って行く藤乃を玄関で見送っていると、私の背後にある柱の陰から式と黒桐が出てきた。
「何だ橙子? あっさり明け渡したんだな」
「私が、藤乃と赤ん坊を取り合うとでも思ったのか?」
 そんな事、誰がするものか。
「それで、どうするんだ?」
「何がだ?」
「また、赤ん坊を作りたくなったんじゃないか?」
「あんな苦労、一度だけで充分だ」
 そう言って踵を返すと、私は階段を上った。

 私室に戻った私は、空になったベビーベッドを見下ろした。最早これは、無用な邪魔者だ。明日にでも、捨ててしまおう。
「いや、明日はゴミの日じゃないな」
 私は、もう少し置いておく事に決めた。

終わり

[後書き]
 今日は、練馬です。
 ハロウィンは、ネタが無いのでこれが最後の投稿になりそうです。
 最初は全然違う話になる筈だったのですが(子供を完成させるまでのプロジェクト×でした)、全然話が盛り上らなくて放っていたら、こっちの展開を思い付きました。
それでは皆さん(いきなりダッシュして逃げ去る)。

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