10月31日、午後三時
オックスフォード通りに曲がる角で

















 ――あと5分。
















 息を吐く。
 白く結露して霧散していく。
 息を吸う。
 冷たい風が肺にきつい。
 腕時計を確認する。
 午後三時まで、あと――五分。
 毎年待っている。
 彼がいなくなって、もう三年になるけど、約束どおり、オックスフォードストリートに曲がる角で、10月31日に待っているわ。
 晩秋とも初冬とも言い難い、なんともいえない季節。
 風は冷たいけど、今年は晴れていて日差しが心地よい。去年は雨で最悪だった。
 彼は来る。
 今年こそ。
 絶対。
 そう思う。
 まわりは万聖節の前夜のハロウィンということで、ジャック・オ・ランタンを灯していた。
 見渡すすべての商店はハロウィン・グッズでディスプレイされている。
 ジャック・オ・ランタン。黒猫。魔女と箒。星に三日月。
 まだ仮装して練り歩く子供達はいないけど、大人達の方が子供たちよりも先に魔法使いやシーツのお化けの姿をして、ハイドパーク方面へ歩いていく。楽しそうに、陽気に。
 それをほんのちょっぴりうらやましげに見ている。
 時間がたつのが速い。いつもはこのハロウィンがくるのを一日千秋の思いで待っているのに、いざ当日になると、こんなにも速い。
 午後三時がくるのが待ち遠しく、そして――怖いの。
 彼がこないんじゃないか、と不安にかられてしまう。
 目立つように、わざと明るい桃色の服を着ている。
 わたしが好きな色で、彼が褒めてくれた色。
 手にはスケッチブック。日付は3年前で止まったまま。それには可愛らしくリボン。これはハロウィンのプレゼント。約束したから、毎年持ってきている。
 あたりを見回す。
 彼の姿が目に入らないか、と。
 今立っている場所は、人通りも多く、車の往来も激しい、このオックスフォード・ストリートに曲がる角。その先には――大英博物館。
 そう。彼と出逢ったところ。
 あの優しくて、饒舌で、人当たりの良い、彼と初めて出会ったところ。

 当時、わたしは美大生で、よく博物館のスケッチに訪れていたわ。
 大英博物館でスケッチがゆるされているものは、なんでもスケッチしたわ。名画を模写するのは、美大生としては当然だった。最高のタッチ、色使い、構図、それを学ぶために何度も同じ絵を描いたから。
 でもそっくりにはならない。模写といっても贋作をつくっているわけではなく、巨匠と呼ばれる人たちのテクニックを盗むため。そのなかにゆっくりとわたしというものが入り込み、わたしと巨匠が入り交じった作品となっていく。
 わたしはポップアートを専攻しているけど、それでもやはり名画といわれる数々の作品には圧倒される。たとえ分野が違っても、人の心をうつものを見ているだけで、新たな感性が開けるつもりになってしまう。
 もちろん絵画ばかりではない。彫像もスケッチしたわ。こまかくスケッチすることで、空間的なひろがり、立体感を会得する。もちろんそのあとはあえてそれを消してみたりとポップアート的な展開もしちゃう。
 ゴッホなんてポップアートと思うけど、みんなは否定的な意見。写実的にとらえた様々な箇所をいろんな方向から見た視点のまま平面に閉じこめてしまうなんて、うっとりするほど素敵だと思うのに。
 こうして博物館でスケッチをしていると、スケッチ仲間というのができる。といっても、ああいつもの人ね、今日もあれをスケッチするのね、あれ? あの人は今日は来てないけど、どうしたのかしら? と心の中で思う程度。あとは行きと帰りの挨拶。ヘロゥとバァイの関係。
 かよっていると警備の人も仲良くなってしまう。ときおりこちらから警備の人やキュレイターの方にサンドイッチや紅茶の差し入れ。こちらではみんなマイ・マグカップを持ち歩くから。
 そして時々みんなでお茶会。あの美術討論のはじまり。わいわいと楽しく、時には真剣に――でもきちんとふざけて。
 そんな時、わたしは彼と出会った。
















 あと――4分。
 ふと空を見上げる。立ち並ぶ建物から切り取ったような青空は、とても澄んでいて、心を和ませてくれた。
 雲一つない空。
 通りの車の音。あるく人々の足音と歓談の声。
 雑踏の中、わたしは一人。
















 彼は派手だった。
 赤いコートをきていて、優雅に立ち居振る舞うその姿に、心奪われたわ。
 暗い金髪、深い知性をたたえた碧眼、ドイツ系の顔立ち、ひきしまった口元、まるでギリシア彫刻のようだった。
 均整のとれた美しいプロポーション。ある程度鍛えた体、肉体美。そしてそれに宿る理性の輝き。
 冷たく観察しているようにみえて、その口元には柔らかい笑み。
 派手な外見なのに、品が悪くなく、綺麗に上品に優雅に振る舞うその姿。
 わたしは思わず彫像をスケッチせずに、彼をスケッチしていたの。
 その指先、唇、整った顔立ち、笑った顔、考え込む顔、立っているところ、みんな書き留めていった。
 彼が来ていると、ほっとしていそいそとスケッチをし、彼が来ていないとわたしは落胆し、彫像をスケッチした。
 わたしは黒炭で彼を描く。
 クロッキーブックに黒炭をすべらせ、パンで消し、また描いた。
 描いて、観察して、また描く。
 彼がいるだけで、彼を見るだけで、彼をスケッチするだけで、幸せだったわ。
 永遠に続く、時が止まった、至福の時間。
 一枚描き上げるごとに、わたしの心があたたかいもので満ちていくの。
 そう――わたしは一目で恋に落ちた。
 たぶん、恋、だと思うわ。
 彼を思わずにいられなかった。
 学校でも、家でも、ふと気がつくと彼のことを考えていた。
 ずっと彼のことばかり。
 目をつぶっても、彼の横顔が描けるぐらい。
















 あと――3分。
 少し寒い。
 風が冷たくて鳥肌がたつ。
 スターバックスでキャラメル・モカでも買ってくればよかったかな? とチラリと思ったけど、我慢する。
















 わたしは忘れ物をしてしまった。
 ついお茶会に参加して、うっかりと絵の具をスケッチしていた彫像の側に置いてきてしまった。
 イギリスでは忘れ物、落とし物をしてはいけない。
 昔のことだけど、IRAの活動による爆弾テロが多発した結果、落とし物を警察に届けるのではなく、落とし物には今でも場合によっては爆弾処理班がやってくるのだ。
 だから忘れ物をして、もし処理班がきていると、事情聴取されてしまう。
 だから急いで、現場へと戻る。
 絵の具のまわりに人だかりができいた処理班が来ていたら、どうしよう!
 でも、違った。
 そこにいたのは、彼、だった。

「これは君のかな?」

 突然のことに狼狽し、どうしていいのかわからなった。
 パニックに陥る。
 彼がこんな側に……。
 想像していたよりもしっとりとした低い男性の声。
 いえ、そんなんじゃなくて。
 彼は微笑みかけてくれる。
 思わず、見とれてしま……じゃなくて。
 顔が赤面してしまう。
 ああ、なんで今日もっときちんとお化粧してこなかったのよ。
 ほとんどスッピンじゃない。
 心臓の音がうるさい。
 頭の中にいろんなものがグルグルまわる。

「――違うのかな?」
わたしのです!

 ――――あっ…………。
 わたしは大声を張り上げていた。
 彼はくくくととても楽しそうに笑う。
 赤面していく。顔が熱くなって、俯いてしまう。
 なんてこと。ああ恥ずかしい。こんなとこ、見られるなんて……。

「では、これを」

 そういって絵の具のはいった鞄を差し出す。
 それでは、といって立ち去ろうとした彼に思わずまた叫んでいた。

あ、ありがとうございます!

 もう何がなんだかわからなかった。

「あ、あのぅお礼にコーヒーを奢りますから……」

 気がつくと彼の赤いコートを掴んでいた。
 きょとんとした彼の顔。そんな顔も、いつもと違って可愛らしいと思ってしまう。

「ああ、ではコーヒーを一杯奢って貰おう」

 コートを必死に掴んでいた手に触れられた。
 心臓の鼓動が一瞬高まる。
 それからなにを話したのか思えていない。
 たぶん、みっともないところばかり見せてしまったのだろう。
 覚えているのは、彼のその姿。
 コーヒーを口につけるところ。
 こちらにやさしく微笑む顔。
 優雅な振る舞い。
 貴族のよう。
 たかがコーヒーを一杯奢るというだけなのに、レディファーストとしてエスコートしてくれたこと。
 あの時の心臓の高鳴りを、
 あの時の胸のときめきを
 決して――決して忘れることはないでしょうね。
















 あと――2分。


 ヘロゥ


 声がかけられる。
 はっとして見ると、そこには――知らない男性。手にはジャック・オ・ランタンのパペット。裏声をつかって、トリック・オア・トリート? と冗談めかして話しかけてくる。
 落胆を覚えながら、ポケットからキャンディを取り出して渡すと、ウィンクして去っていった。
 早く――こないかな。
















 彼と少しだけ仲良くなった。
 といっても顔を見かけるたびにヘロゥとバァイを掛け合う程度。
 それでも。
 彼のヘロゥという甘い響きに、バァイの少しもの哀しげ響きに、わたしは毎日ドキドキしていた。
 彼は博識だった。
 古典から美術史、芸術への深い洞察と造形、わたしがひとつ尋ねると百は答えがかえってくる。彼の知識は美術に留まらずに、天文学、基督教史、文化人類学、生物学、科学、なんでも知っていた。あまりの博学ぶりに、思わず魔法使いみたい、というと、本当の魔法使いはこんなんじゃないよ、とまるで本物をしっているかのような言い方をしたわ。
 でもわたしが、物語に出てくる賢者かマーリン――魔法使い――みたいよ、というと、彼は少しだけ笑った。思わずスケッチをもっていない自分をののしりたくなるぐらいの、とても綺麗な笑顔だった。
 彼は不思議だった。
 彼は自分のことを一切話さなかったわ。どこに住んでいるのか、どこで生計をたてているのか、一切話してくれないの。
 名前ぐらい、と思ったけど、でも――――――――いいの。
 彼がいるのならば。
 そのかわりに自分のことをペラペラとしゃべったのよ。
 話の間が持たないと思うと、もぅいろんな事を。なんであんなことを話してしまったんだろうと、後悔することもしばしばするぐらいに。
 わたしが誕生日が嫌いだというと、なぜかな? と聞いてくれた。
 わたしの誕生日は10月31日でハロウィンの日。わたしの誕生日はいつもハロウィンパーティと重なってなぁなぁ。逆にトリック・オア・トリート? といってからかわれたから。
 そういうと、彼は笑った。
 妖精のたくさんいる日に生まれたなんて――僥倖だね、といってくれた。
 そうだよ――彼は沢山話してくれた。
 イギリス民話。妖精物語。
 妖精物語といっても北部のウェールズを中心にした物語とこちら南部の話では大きく違うこと。ダーナ・オ・シーと海の向こうにあるティル・ナ・ノーグ。残された妖精達。
 基督教に感化された話。高名なアーサー王と妖精神話。アーサー王の物語はイギリスよりもフランスで花咲いたこと。フランス文学としての騎士物語(ロマンス)。
 イギリスで生まれ、育ったからある程度はしっているけど、外国の人は学ぼうとして知っているから現地の人よりも正確な話をしてくれる。わたしも知らない物語にわくわくした。彼はまるで学者のように体系づけてきちんと話してくれる。
 その話にしばし耳を傾ける。
 それから、少しだけ誕生日が好きになった。
 その程度の知り合い。
 ふたりっきりで会うわけでもなく。
 恋を語らうこともなく。
 ただヘロゥとバァイの関係。
 でも、それは博物館の彫像の前での逢瀬。
 彼はけっして逢瀬だとは思っていないだろうけど、わたしにとっては逢瀬。
 彼が彫像を子細に観察している姿をそっと書き留める。
 静謐な、それこそ魂さえも吸い込んでしまうような静謐な空間。
 そこにいるのはふたりだけ。
 眺める彼を眺めているわたし。
 それだけ。
















 あと――1分
 まだ彼の姿は見えない。
 ドキドキする。
 会ったら何を言おう。
 会ったらまずプレゼントして、そして約束に遅れたことをうんとなじって、でもすぐに許してあげて――。
 心臓の鼓動が強くて体が弾けてしまいそうなほど。
















 彼は1999年に、わたしにこういったの。

 日本に行く用事ができた。

 動揺していると、笑っていった。

 ああ、ちょっと昔の学友に会いに行くだけだよ。

 その時に、彼の表情に浮かんだのは。
 その時に、彼の瞳に浮かんだのは。
 深い喜悦と、冷たい憎悪と、昏い欲望。
 戻ってくれるよね……と聞きたかったのに。
 彼が会いに行くといった学友が誰だかピンときたわ。


   女の人。


 確信した。彼の心にいて彼の心を捕らえて離さない、わたしの知らない女の人に会いにいくんだ、と――。
 そう。
 わたしは彼のことを知らない。
 名前ひとつ知らない。
 知っているのは彼が博識ということ。
 ただそれだけ。
 わたしの知らないところへ、わたしの知らない女性のもとへと、彼が行ってしまう。
 言葉がなかった。
 言葉を紡ごうとしても口が動かなかった。
 舌も唇もまるで石になったよう。

 行かないで。

 そういってしまいそうになる。
 でも――わたしは彼のなんなの?
 ただの――顔見知り。知り合い。
 彼の女でも、ガールフレンドでも、ステディでもない。
 ただのヘロゥとバァイの関係。その程度。
 そんなこと、言える立場ではなかった。
 そんなこと、言ってはいけない立場だった。
 言えない想いが胸にわだかまる。

「……10月31日ってわかる」

 声が震えていた。

「ハロウインだな」
「違うわよ。わたしの誕生日よ」
「あぁそうだった」
「――そのとき、ここを出たすぐのオックスフォードストリートをハイドハークの方へ曲がった角で、会ってくれないかしら?」
「ハロウィンにかい?」
「10月31日によ」
「……」
「あなたに、渡したいものがあるの」
「プレゼントかい?」
「うん――わたしが書いたあなたのスケッチ」
「誕生日だよね」
「……うん」

 するとにっこりと笑う。
 その笑みに心が――囚われてしまう。

「では、いつか10月31日の午後3時に、誕生日プレゼントをもってこよう。そしてバースディ・パーティだ」
「……約束、だよ」
「あぁ……約束だ」
「10月31日、午後三時、オックスフォードストリートに曲がる角で」
「10月31日、午後三時、オックスフォードストリートに曲がる角で」

 そして彼が旅だって――――――三年。
















 鐘がなる。
















 息を吐く。
 白く結露して霧散していく。
 息を吸う。
 冷たい風が肺にきつい。
 腕時計を確認する。
 午後三時。
 今年も――こなかった。
 何かがこみ上げてくる。
 涙が不覚にもこぼれそうになる。
 初めてのときは泣いてしまった。
 でも――泣かない。
 また息を吐く――これはため息。
 涙のかわりにため息をひとつ。
 そしてゆっくりと下宿先へと歩く。
 ハロウィンパーティなんてすべて、約束のため断っている。誕生日も、みんなで祝うことはないわ。
 最初の年のように、日が暮れるまで待つなんて――しないわ。
 でも――けっしてバァイとはいわない。
 約束したんだから。
 たとえ別の人が好きになったとしても、たとえ結婚しても、たとえ子供が産まれてお母さんになっても、たとえお婆さんになっても。
 10月31日の午後三時には、オックスフォードストリートに曲がる角で、彼を待つわ。
 約束のスケッチをもって。
 言葉にできなかった想いとともに。






















あ と が き

 卑怯とは言うまいね?

 わたし、しにをさんのこの言い回し、好きなんですよ(笑)
 だからここであえて使わせていただきます。
 イエローカードどころか、レットカードっぽいですけど、でもこれもありですよね?
 もちろんアルバのSSですよ。当然です。そしてきちんとハロウィン(10/31)の話だし……駄目でしょうか?

28th. October. 2002 #70

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