『とりっく、おあ、とり〜と』




「橙子さん! 何なんですかこの出費は!?」
「ん? いや、記憶に無いなぁ」
「無いわけないでしょう。先週ですよ」

 幹也と鮮花が苛烈に責めたて、それを橙子がのらりくらりと受け流す。
 先ほどから延々と続いているその図式は、今だに変化する気配が無い。
 誰か一人が根負けした時点で終了になるはずなのだが、三人が三人とも根気強い人間なので……きっとネタさえあれば明日の朝までやってるに違いない。
 そんな光景をいつもの場所――窓際のソファー――から眺めながら、私は退屈していた。
 事の発端はなんてことは無い。幹也の知らない帳簿が橙子の机から発見されてしまったというつまらないものだ。
 ただその帳簿には何やらとんでもない無駄遣いの証拠が書かれていたらしく、見つけた幹也、そして何故か鮮花までもが橙子を責めたて始めたのだった。

 退屈だ――――

 幹也には悪いけど、あいにくと私は橙子の金の使い道になんて興味は無い。
 
 それよりも私は――――

 事務所内に一つしかない時計(もともとあった物ではなく、幹也が後から持ってきた物だ)を眺めた。
 時刻はすでに午後八時を回っている。
 退社近くに発覚したことを考えると、もうすでに三時間近くこの状態が続いていることになるだろう。
 ジッとしているのにもいい加減飽きてきた私は手近にあった(正確には転がっていた)消しゴムを拾い上げた。 

 ざくっ
 
 ざくっ

 そして懐から愛用のナイフを取り出すと、それを五ミリ角ほどに切り分けていく。
 メンテナンスを欠かさないナイフは切れ味鋭く、まだ使われていない消しゴムを大量の綺麗な正方形の<<弾>>へと変えていった。
 ソファーの上に小さな山をつくったその弾を、私は自分の指の上に乗せた。
 目標までの距離は約四メートル。角度良し、風向き良し。
 ――――発射。
 指に弾かれた弾はゆるい放物線を描きながら、幹也の肩を飛び越えていった。
 残念。ハズレ。
 弾を補充し、第ニ射――――しかし、またハズレ。
 予想外にもなかなか難しかった。
 弾の打点が小さいために、正確に飛んでくれないのだろう。
 角度を調整して再度弾く。

 ――――ペチ

 右肩にヒット。
 さらに撃つ。

 ――――ペチ

 今度は背中にヒット。
 コツさえつかめば後は繰り返し……単純作業だ。

 ――――ペチ

 今度は後頭部にヒットした。

「あ〜〜〜〜……式?」
 いい加減気づいたのか、それとも我慢の限界に来たのか、幹也がこちらへ振りかえる。
「ちょっと今立て込んでるから後にしてくれないかな?」
 口調はいつも通りだが、その目は血走っている。
 後にしてくれないかな? なんて言いながら、反論を赦さない迫力があった。
 その思わぬ迫力に、私は言おう言おうと考えていた言葉を口に出せなかった。

「兄さん、見てくださいこの支出!」
「この月は……僕の給料が何故か半額になった月じゃないですか!!」
「そうだったかな? そんな事もあったような無かったような……」

 延々とリピートし続ける幹也達の問答。
 それはまだまだ終わりそうに無かった。
 私はため息をつき、視線を反対側の窓の外へと向けた。
 外はすでに真っ暗で、開きっぱなしの窓からは冬の冷たい空気が流れ込んできている。
 天にはまるで小学生が書いたような黄色い月。
 ただそれだけの風景。
 夜は美しくもあるが、表情が乏しいために退屈でもある。
 そう。退屈だった。非常に退屈だった。

 しかし――――ふと、疑問に思う。

 私は、いつから『退屈』を感じてしまうようになったのだろうか、と。
 いつからこんな風になってしまったのか、と。
 昔は退屈なんて感じたことは無かった。
 欲しいものは全て有った。だから欲しいものは何も無かった。
 欲しいものなんて何も無かった。だから欲しいものは全て有った。
 そんな閉鎖された螺旋の中にいた私は、退屈という感情――すなわち『満たされない』という感覚――なんてありはしなかった。
 いつからこんな満ち足りない私になってしまったのだろうか。
 
 視線を再び事務所の内へと戻す。
 なんて表現すれば言いのだろうか?
 分からない。
 ただ、狂おしい程に燃え上がるこの――――苛立ちに似た感情。
 幹也は今、橙子を見ている。
 私はいつも、幹也に見ていて欲しいのに。

「とりっく、おあ、とり〜と!」
「とりっく、おあ、とり〜と!」
「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ〜!」

 唐突に聞こえてきたのは、まだ幼い子供達の声だった。
 気配が読みづらく正確な数は分からないが、間違い無く5人以上。
 その子供達は笑いながら英語と思しき謎の呪文を唱え、事務所のある廃ビルの向こうを通り過ぎていった。
 ”Trick or treat”……直訳すると「策略かもてなし」
 意味がわからない。

「ほぅ、そういえば今日はハロウィンだったか。しかし、珍しいな。日本にはあまり馴染みの無い文化だと思っていたのだが……。そうだ黒桐、お前知ってるか? ハロウィンはもともと――――」
「そんなのは良いですからこのお金の使い道を説明してください!!」
 なにやらいつもの解説癖がでそうになるのを、幹也の怒鳴り声が止めた。
 だが、それとは別に、私は聞き覚えの無い言葉に首をかしげていた。
「……はろうぃん?」
「なんだ、式はハロウィンを知らないのか? ハロウィンとは簡単に言えば日本のお盆みたいなもので、子供達があぁやって呪文を唱えながら家々にまわってお菓子を貰ってくるんだ。ちなみにその起源は――――」
「橙子師! こちらに集中してください!!」
 
 またもや鮮花によって遮られ、橙子はちょっと悲しそうな顔をした。
 これが私の役目なのに……なんて、ブツブツと愚痴る声が聞こえてきそうだ。
 しかし……お盆?
 お盆にどうして子供がお菓子を強請るのだろうか?
 どこの国の風習か知らないが、ワケの分からないことをするものだ。
 子供達の声はその後もしばらく残照のように聞こえてきていたが、やがてそれも消え去ってしまった。
 
 なのに――――

 ――――とりっく、おあ、とり〜と

 ――――とりっく、おあ、とり〜と

 この呪文だけは何故か私の脳裏から消え去ったりはしなかった。

 お菓子をくれなきゃイタズラするぞ、なんて大人じゃ言えない。
 だからこれは子供だけの魔法なんだろう。
 なんて直情的で、短絡的で、そして悲しくなるほど我侭で。
 何の代償も無く、何の苦しみも無く――――あるいは、それらに気づくことなく。
 だけどそれが通るから魔法なんだろうとも思う。
 子供だけが使えて、なんだって手に入れられる強力な魔法。
 私は今、それを心底うらやましいと思っている……。

 その微笑を、その瞳を、その温もりを。
 私は、私だけのものにしたい。
 だけど、望めば望むほど遠ざかりそうで、少し怖い。
 手に入れてしまえば、さらに上を手に入れなければならないから。

 昔なら、そばにいてくれさえすれば良かった。
 そばにいて、その声が聞こえるだけで救われていた。
 だっていうのに、私は今、こんなにも『退屈』だった。

 人は、皆こんな苦しい世界に生きているのだろうか?
 満ち足りない自分を抱えて、求めれば求めるほど手に入れられなくなると分かっていても、求めてしまう。
 なんて最悪な――――二律背反なんだろう。
 
 もっともっと欲しいという――――狂おしい熱情。

 これ以上求めてはいけないという――――身を引き裂く願い。

 子供達のように、あんな素直に行動したりは出来ない。
 内に秘める思いを、明確に表現することなんて出来やしない。
 だから私は――――

「橙子さん! いい加減本当のことを言ってくださいよ!」
「本当のこと」
「AzoLtoぉぉぉぉっ!!」

 だから私は、幹也がこちらを向いて笑いかけてくれることを願いつつ、声に出さずに唱えるのだ。

 ――――とりっく、おあ、とり〜と

 ――――とりっく、おあ、とり〜と

『構ってくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ?』





 






あとがき

 以上、式の人間らしい感情による苦悩のお話でした♪
 
 しっかし、最初はほのぼの萌え萌えで行くはずだったのに、どうしてこんなんになってしまったのでしょうか?
 雨音の実力不足? えぇそうですとも!!
 あ、でもちょっと支離滅裂気味なのは式の脳内のパラドックスですので。雨音のミスじゃないです。

 ちなみに、ラストの一言が『萌え』を書こうとしていた残滓です。
 萌えません? この言葉(ぉ

 『ハロウィンの夜に』なのにハロウィンに付いてはあんまり触れていないのは、気にしないでやってください。
 ハロウィンについての知識が無さ過ぎなので……。